有り余る時間を楽しく過す極意を知った友人らとの交流の場。 環境にやさしい趣味の世界へどうぞ。 趣味は現役の時から持つと人生が倍に楽しめます。
 
2013/02/16 21:37:47|船の思い出
船の思い出・・・大嵐に遭遇
船の思い出・・・大嵐に遭遇
 
オーストラリアの最後の寄港地ブリスベンを後にし、再び赤道を横切り、パナマ運河を目指します。パナマ経由アメリカのデルウェア州に向う航海計画が伝えられました。
 
オーストラリアの南岸を航行中、どえらい低気圧に遭い、傾斜計が35度を振り切れるくらいローリングし、横風を避けるため南極に向かい一昼夜航行しました。
パーサーが冷蔵庫の中に隙間が出来ないようにびっしりビール缶を詰めます。それでも缶を開けると天井まで泡が吹き出るほどでした。
船体が軋みます。舳先で砕けた波がブリッジまで届きます。回転式の小窓も一瞬水浸しとなり前が見えません。大波に突っ込んだ舳先が暫く浮き出てきません。プロペラが空中に飛び出しウインドミル現象(空回り)を起こし、エンジンが唸りガバナーが回転数を落とすよう作動します。
アンカーが外板に衝撃を与え、カーペンター室に凹みが発生したくらいです。
こんな状態の中でも船酔いはしないので乗組みがびっくりしていました。
残念ながら写真は撮れませんでした。







2013/02/15 15:46:34|船の思い出
船の思い出・・・別れ

船の思い出・・・別れ
 
乗り組の一人、確かビリーだったと記憶していますが、胃潰瘍の疑いがあり、養生のため急遽下船することになりました。
そうなるとまた全員でビリーの送別パーティです。
良く飲んでいたし、口論が始まると早口でしゃべり、スラングが並びさっぱり判りませんでした。でも人はとても良く、親切にされました。
 
乗船して2ヶ月も経つと船内の環境やテンポにも慣れ、お互いの気心が以心伝心となります。
そんなある日、デッキクレーンのギヤーへのグリース補給のやり方が一寸おかしかったことがありました。夕食後、ボースンの部屋に取扱説明書を持参し、説明したことがありました。
保証技師が直接ボースンの部屋に入ることは考えられないことで、クルーの皆さんはびっくりしたそうです。それだけ階級制度を維持した船上だったのです。
その教えを受けたと、このお別れパーティーではビリーにとことん飲まされました。
 
ボースンがこのときの感謝の気持ちを文章にし、全乗組員のサインがある手紙がしたためられ造船所の設計部長宛に届いていることを、帰国後知らされました。
 
写真ー1
お別れパーティーで、ビリー?1等航海士の奥様と記念撮影。
 
写真ー2
じゃ元気でな!!とウイスキーをがぶ飲みでした。
 
写真ー3
昼間はこんな調子でした。







2013/02/14 19:45:37|お知らせ
竹とんぼ仲間の木工展
竹とんぼの大先輩が木工展を開きます。
お近くの方は是非見学してください。
参考になる情報を得られるでしょう。







2013/02/13 22:00:00|船の思い出
船の思い出・・・息子の誕生日

船の思い出・・・息子の誕生日
 
オーストラリアの港湾労働者のストライキにより係船状態が続いている6月のある日、メスルームに近づくことを禁止されました。
何かあるのかな、避難訓練を行なうのかなとくらいに思っていました。
パーサーから夕刻6時頃、少し正装をしてメスルームに集まるよう指示がありました。
 
なんと何と、コーチャンの次男坊が生まれたとモールス打電が届いたそうです。誕生パーティーを開いてくれたのです。
各自思い思いの正装?に身を包みパーティー会場に集まってきました。
パーサーの開演の挨拶と共にコングラッチュレーション、ベービーサンと乾杯です。
 
とにかくパーティー好きの皆さんです。
和気藹々と深夜まで続きます。
 
写真ー1
ビッキーとツーショットです。
パーサー(右)の姪です。
 
写真ー2
正装に身を包んだ乗組みの皆さん。
 
写真ー3
日本では、ピンクレディーやタイガースの歌謡曲が流行っていました。イギリスではアバの人気が高まっていた時期でした。
バンコックで購入した尻切れのカセットテープを回し、カラオケに夢中です。
 
写真ー4
ロビーでは音楽に合わせダンスパーティーが始まります。







2013/02/12 22:00:00|船の思い出
船の思い出・・・熱き青春時代
船の思い出・・・熱き青春時代
 
引渡しの時期に5年の差がある僚船を同時に見れたことは実に幸せでした。設計段階の苦労や新規技術の習得、建造に携わった多くの仲間、陽気な乗組みの皆さんとの交流など、いろんな事が思い出されます。20代後半から30歳頃に経験し教わったことがその後の人生への礎となっています。
振り返ってみれば仕事に感謝、会社に感謝、家族に感謝の日々でした。
 
写真ー1
僚船のファンネルマークをツーショット。
 
当時の建造実績表を見るとほとんどが外国船です。小さな造船所のため同一設計での多量建造を主体とした会社運営が為されていました。所謂シリーズ船建造です。331シリーズ、351シリーズとかの名称で呼ばれ、乗組みの出身地により若干の変更を行なう程度で、基本設計は同じです。
造船所での設計者に要求されることは効率の追求でした。標準化という言葉を聴かない日はありませんでした。
 
「SWIFTNES」も「BORGNES」も4隻シリーズの中の一船です。
両シリーズは5年の差がありますが、ともに発注船会社は同じですから評判が良かったのでしょうか。造船市況はピークの時代でした。