当たり前の事に喜びを見つけた時 その喜びは、本当にすばらしく有難くステキに輝く
今日は土曜日の為の調律があった チェチリア工房には2台のピアノがあり それぞれ、あるピアニストのゆかりのピアノで 長年、弾かれないままになって深い眠りに沈んだ楽器を チェチリア工房が出来た時、ご縁で譲り受けたものだ
チェチリア工房はかれこれ、10年の歴史に近づく頃となり 其々選任の調律師がいて、ピアノを蘇らせ続けてくれている。
調律師をモデルにした小説が近年話題になった。でも、現実に自分がその小説以上に思える体験をできるとは思っていなかった。しかし・・・それは、実にこの楽器は、ピアノと言う楽器は、生まれた時から、人に人生というストーリーがあるように、1台1台の楽器が生涯をもってうまれきているのだ。
前回の調律の時、眠っていたピその本性を垣間見せてくれた気配があったが、今日は調律師さんがその気配を見事に引き出してくれ、音が光始めた。こんな経験は長くピアノと付き合っているのにはじめてだ。
「楽器を育てる」という言葉があるが、その意味はよく分かっていたつもりだ。だが、それは弾き手(吹き手)と楽器との関係の話で経験していた。調律師が手を入れ、弾き手が鳴らし、楽器が音を実現し、又さらに調律師がチューニングアップをする。その繰り返しの中で、潜在能力のようなものが顕在化し、まるでワインのはなしのようなことが起こる。
自分が弾いてもピアノが明らかにきれいな発声をしてくれているのがわかるが・・・もっと上級のピアニストが弾くと、えっと驚く音を出してくれる。自分には出せない音をこのピアノは出している! 私のピアノなのに、・・・・私は自分の限界に直面しながら、 ピアノの身になって、良かったね!その音を出してもらえて本当におめでとう・・・という気持ちになる。
今日は、ピアノを持って、幸せだ!と本当に深く思った。 調律が出来るピアノは可能性を孕んでいる。デジタルの楽器ではなく、調律師によって、プロのメンテナンスによって輝きを増す、本物の潜在能力を持った楽器であることが、いかに大切な事で、幸せなことか・・・・
社会はIT化で色々なものが、アナログの世界から抜けて行く。人間の感覚もそれに適応しながら変化してる。必ずしも進歩は良い方向ではないような気もする。 音の世界はもっと、生理的で微妙なものだ。人はそれを感知できて然りだと思う。・・・がいまや、感知をデジタルで計測し、把握する時代だ。数値をみて感動する時代だ。その感動の質は「感動」によって違うはずだ。
音を聴いて、光のように感じる。 音は見えない。 光は聴こえない。 その二つの世界が、実感として感じられる、そのことの意味を 深く味わうと、幸せがこみあげてきて なんだ、こういう事で、人は本当に幸せを実感するんだなって思った。 |