スメタナの活動
スメタナはボヘミアでの演奏旅行を行っていたが、サポートが充分に得られずプラハに戻っていた。 そこで、生徒に教えたり、室内楽の伴奏者として生計を立てていた、
24才の頃、スメタナは短期間ではあったが革命運動に傾倒していた。この頃、プラハでは政治の変化と動乱の風潮で民主化運動が起こっていて、この最中に、旧友のカレル・ハヴリーチェクに再開していた。カレル・ハヴリーチェクはハプスブルグ家の先制支配に終止符を打つことを主張していた。この中でスメタナは愛国的ながっきょくのシリーズを書いていた。 その中には ・プラハ大学の行進曲 ・ヤーン・コラールの詞に曲をつけた「自由の歌」 がある
プラハがオーストリア軍の攻撃にさらされるようになるとスメタナは市民兵の一員として行動もした。しかし、ハヴリーチェクらが受けた国外追放や投獄は免れた。 作家であり、急進派であったカレル・サビナに出逢い、後に彼の提供するリブレットをスメタナは最初の2つのオペラに仕立てた。
同年、リストに手紙を書き、作曲活動の支援を依頼した。リストは金銭的な支援はしなかったが、スメタナのピアノ作品の献呈を受け、出版への足掛かりの援助をした。このことは後に始まる友人関係への原点となり、この年、12人の生徒でピアノ学校を創始した。その学校の評判は高まり、一時、チェコの民主主義を主張する者たちの間で流行した。 翌年、スメタナの音楽学校は後に結婚するカテジナの両親の家に移転し、著名な訪問者やリストの定期的な訪問を受けるようになった。フェルディナンド1世はここのマチネー・コンサートに出演したという記録がある。
スメタナとカテジナとの間には4人の娘が生まれた。
スメタナは革命に近い思想をもっていたが、フェルディナンド1世の常任宮廷ピアニストの職に就くことが出来た。
ピアノ学校で教鞭をとりながら、ますますピアノの為の楽曲の作曲に打ち込むようになり、後に「売られた花嫁」に使われる楽曲のいくつかもこの時期に作曲した。
・・・・・・スメタナはピアニストだったので、沢山のピアノ曲を作曲したようです。オーケストラ作品が有名なので、ピアノの作品を聴く機会もあまりありませんが、興味深いですね!
*画像はスメタナの肖像画
|