幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2021/07/07 5:55:42|庵主録録
庵主録録 その8
こゆるぎの浜 5.18 4:54


 
《1993年》
 

痛風の疑い、じつは無いと医師にいわれ、それをキッカケにアルコールを断つ。わたしの禁欲はこのようにあべこべの動機に基づくのがよい。ささやかに開設した社交界の扉も(れいの門番が登場して)静かに閉められるだろう。好意を寄せてもらったことが確認された段階でわたしは幽閉される。
かつて文芸レースに落ちた段階で職を辞したときにもあべこべ神の指令があった。
 
初体験で大切なことは、生んだモノにみつめられる感覚である。F氏の好意でわたしの眼前にならべられた映画やコミックをわたしは主体的意志で見なかった。私はそれらに照らされた。幽霊たちが、次々と、わたしのマナコにしみ入ってきた。それらはやがて、わたしの中でなんらかの‶計画″をたてるだろう。わたしはその企画をゆるす。
 
易が科学なら、わたしも科学者であり、易が神秘そのものならわたしも神秘主義者だ。易が祈りなら、わたしは信仰者である。それが道(タオ)ならわたしは倫理学徒である。それが生活の指針ならわたしは迷信にとり憑かれた者。いずれにせよ、わたしは、とりつかれたこと(ポゼッション)を隠さぬし、それが「財産」(ポゼッション)になったことをよろこぶ。わたしは文明としての西欧を崇拝しつづけてきた。哲学にしてもオペラにしても、まだまだ何も消化吸収したといえぬ。それでも、わたしはときに、あのユングのやり方で易に回帰する。つまり、身も心も西欧文化に浸りきったうえで、東洋ふうタオに帰依するのだ。
 
啓蒙主義的な言動をつつしむ。それが唯一の倫理綱領。成熟したのだから……というウナガシで啓蒙書を刊行したりするアヤマチ。アヤマチとはみえない決定的なサクゴ!
易のような主題についてすら、長年チンセンすればすぐに啓蒙的言動をしたくなる。入門の扉を背負いつづけることの困難さ、それをさらに負って。
 
エリオットをまねてわたしもマニフェストしておこうか。政治的身分としては百ペルソナの一員。文学的にはサンボリスト。哲学的には(あるいは宗教的には)ユング派。
 
編集者F氏が、わたしの生計のゆくすえを案じて占星術をめぐる解説書を出版してはどうか、とまじめに話す。この事態を、わたしは、気に入っている。「でも、なんでも、やり方次第ですよ」ありがたくて泪が出た。
 
サンボリストとしてのしょうせつ家志願! 詩人=翻訳家としてのしょうせつ家宣言!
「おどるでく」と「そして考」はその手始めとなろう。たとえボツになっても、だ。







2021/07/01 5:44:04|庵主録録
庵主録録 その7
こゆるぎの浜 6.3 5:08


《1993年》

洞穴に入る前の冬構えを他者がやってくれるアリガタサ。おんひゃくしょうの子孫ではあるが、一種の流され王の身上。F氏が何を思ったか今度はコミック・セレクションを手づから自宅より運んできてくれた。計33冊。「以下の順で」と教育指導付きで。

@「少年王者」「ジャングル大帝」A「つげ義春集」「必殺するめ固め」「赤色エレジー」B「火の鳥」C「Pink」「しんきらり」「嘆きの天使」「花咲ける孤独」D「薔薇色の怪物」E「ナマケモノが見てた」「シンプルマインズ」F「博多っ子純情」G「らんぷの下」「裸のお百」H「桜の園」「絶対安全剃刀」

映画を畏れる体験ののちは漫然とした絵を侮らぬ体験。風俗に対する態度をカタメル基礎。そこまで降りる。酒もタバコも女(?)も絶って、流され王はマンゼンと日をつなぐ。奇篤な人の‶持ってきてくれるモノ″をありがたくいただいて。
 
このへんで本を一冊だしませんか、などと声をかけてくれる奇篤な人の声も「正しい」のだろうか。その行為は絵になるのだろうか。はっきりしているのは、たとえそれが傍道の一つであろうと、なにか他者のだした書物として呆け王がながめる種となるのなら今「正しい」といえる、ということだ。
 
ワーグナーオペラの舞台のまばゆいヒカリにあてられたニーチェは偏頭痛が激化した。今、わたしにもまったく同じ症状が進行中だ。洞穴に伏して呻吟することしばし。
 
俳句にも短歌にも現代詩にも「うた」にも負けた。批評の刃にも負けて、その切っ先で自らを傷つけた。小説にも負けなければならないが少々時間がかかる。マケロマケロマケロマケロマケロマケロカエルみたいな大合唱。
 
ヤマトマケル――わたしの現代神話の主人公の名だ。どっさりと負ける――と、どっさりと何かがある日、訪れる。それを大切に応接せよ。
 
(負けの)コミニスト宣言。
 
今時、書物を刊行することなどにそれほどの価値はない、と家人にいわれてナルホド。
罪人意識が払拭しきれないと感じていたのだが、「それほど」のねうちのあるふるまいたりえぬという事実にうたれた。これもちっぽけな転回? わたしが何をしようと、要するに時代も真の他者も、どうということはないのだ。まだ生きていたのか? といった程度の反応すらない。

 







2021/06/23 5:32:43|庵主録録
庵主録録 その6
こゆるぎの浜 4.18 5:09


《1993年》

多和田氏より、さっそく詩集二冊贈られてきた。光のあたる時の人にお近づきを願うイヤシサをかんじつつも素直によろこぶ。
片恋いの他者が遠い零地点に在る――のは理想である。ドイツ語ドイツ文学の魅力などもあらためて迫ってくる感じである。カフカ再再読などにとっても大きな刺激になる。彼女の日本語・ドイツ語併記のチャーミングな詩集を音読しているうち、多彩な学習意欲が学生時代のように湧いてくる。詩篇の一つにあった「若返り法」そのままだ。
 
犬死にふう衰弱死が近づいている。
37歳で死んでしまった至高の見者は12の時に閉じこめられた屋根裏部屋で世界を知ったというが、ここなる男はその天才が死んだ年に、ようやっと屋根裏部屋に入った。「今や私は、まさしく墓の彼方の人間だ、何ひとつ用事はない」ことを思いしる部屋に。しかしあまりのつらさに「イリュミナシオン」の次の一篇「出発」もひき寄せる。
「いやほど知った。かずかずの生の停滞。――おお、ざわめきと幻よ! 新たなる愛情と響きに包まれた出発!」
次の「陶酔の午前」も。
「陶酔のうちに過したささやかな一夜よ、これは神聖なものなのだ! たとえそれが、おまえがおれたちに授けてくれた仮面のためにすぎぬとしても。おれたちはおまえを認める、方法よ! おれたちは忘れはしない、昨日おまえが、おれたちの年齢のそれぞれに栄光を与えてくれたことを」
たとえこれの背景にハーシュシュや阿片服用体験などというものがあるとしても、「方法」の「神聖」性はかわらない。「おれたち」とあるのも、いつになく心強い。生の絶対的停滞の季節ははじまったばかり。「ざわめきと幻」を与えてくれるものをさがしにきょうも荒野をうろついて。「仮面」をひろって。「年齢のそれぞれに栄光を与えてくれた」といえるのも37で死んだ詩人にしか有効でないのも承知して。
 
何年もいっていない病院に今日でかけたら、さんざん待たされたうえ、もう一度はじめから、つまり初診としての手続をふんでくれといわれた。そういうことはありますよ、と編集者氏にいわれそう。このままだと文壇に忘れられてしまう、と、もうそんなことさえいってくれる人はなくなったようであるが。定期的に通っていないとそういう扱いになる。
 
春の農事に参加。負の山河を母と共に歩く。このデクノボー感覚も少しは身につきつつある。日銭がなんとか入ることになったのでひきはらわずに済んだ団地館の近くで筋肉をきたえ、百姓に備えてきた、その成果があらわれてきたわけだ。ミシマユキオほどの徹底性もなく筋力増強をつづける意味もなんとかこじつけられる。家人と猫のクマゴロウのために日銭取りをせいいっぱいまじめにやりつつ、母に寄り添って土にまみれる。これがどれくらい徹底してできるか。少なくても母の死まで。ミシマがのめった武士道に相当するわが百姓道。武士道はすでに滅び去ったものだったが、百姓道も同じである。
 
オペラ憑き状態に堕ちたこと、あるいはその憑きものがおちて陽が暮れたこと。その少し先に、紙神がとぼとぼ歩いている。
真におちる感覚がつねに大切で、それがなければ成り上りエセ貴族の趣味談と差異はない。この感覚だけを頼りに、本年はまともにダンテを読みたい。溝はなにひとつ埋められたわけではない。日本人としてダンテを読むことの溝――そこに誠実な布石をひとつひとつ投げ入れ、そこだけに足をのせて、ゆけるところまでゆく。足をとられることも大事である。西欧文人思想家を相手にするときの必須の要件。
 
山城氏にいわれて、ヘーゲルを読み直す気になる。すると、ヘーゲルの魅力があらたな相貌で立ち上ってくる。おどろいてしまった。あとでよくよく考えて、さらに大きな要因につきあたる。オペラの魔力――その憑きもの体験によって、おどろくべきことに、哲学への情熱が接続された実感を手に入れることができたのだ。詩と哲学を! とジョイスがいったその後者をじつはこれまで身を入れて享受したためしがなかったことにガク然と気づかされた。
哲学の土壌があたかもオペラの舞台のようになってしまった。その観念的な外観、すなわち行となってあらわれた文の意味を追求するのでなくその行間の音楽を感得するような態度が不可欠なのだ。
詩を音楽としてまず受け入れることの必要性をヴァレリーが説いているが、形而上学の読みにおいてもまったく同様だ。

 







2021/06/16 5:21:10|庵主録録
庵主録録 その5
こゆるぎの浜 4.30 5:20

 

《1993年》
 

首をくくって死んだわたしの祖母は、たいして金にもならぬ目下の仕事を狂おしく朝から晩までつづけた。天寿を全うした祖父は、二十年後三十年後に「たいした財産」になるとふんで、やはり目下の収入にはつながらぬ山林仕事(暴落の事実をしらずに逝った彼は幸せだった)をたのしんでやった。先祖とまでいう必要がない――祖父母の代でやっていた仕事のなかみ……それが孫のわたしに近づいている。
 
部屋のドアをあけて中へ入ってくる妻がいることへのカフカの嫌悪感とアコガレ。わたしの場合どうなのか。妻にいてもらった状態から「自然に」孤立の場所へのびてゆく、雑草のように。長い時間をかけて、少しずつのびてゆく。
 
貧相なりともわたしなりの神曲(紙神狂騒曲)をつくれるかどうか――それはひとえに現実の没落機関にふみとどまれるか否かにかかっている。ダンテが呑み込んだ没落者の境涯。
 
S誌、B誌、そしてこのG誌。まがりなりにもわが国を代表するとされる三つの文芸誌のお声がかかりながらとうとうその期待にこたえるような産物を提出できなかった、といかにも野心家の傷心調で書いておくのも、無用の地獄篇にとってタシになるだろうか。いやわたしには学問研究の道がのこされている、という逃げもないのだと嘆いてみせることも。名声などつまらない、わたしにはまっとうな生活人の世界があるということもできないと崖の上にのぼりつめる演戯も型通りやる。さてその上で、静かな一人一党主義の綱領作りにとりかかる。
 
第一期の洞窟暮しで、あのとてつもなくおろかな長物『漆の歴史』をでっちあげた。あの頃と、こんどの二期目がちがうのはどういうところか。
二期の洞穴生活は、散文の風に通ってもらい、案内人たちにも自由に往来してもらう。この二期めの陥没方向の年季が明ける頃には、私の人生もとっぷりと暮れているだろう。正直いえば、第一期でサヨナラしたかった。
 
野に下る、森に入る……その覚悟がまだ徹底されていないという声や、いやこれ以上ゆけばただ崖から転落するだけという声。
『神曲』とほど遠い、やせ細った、トゲトゲしい声。
 
ワイ小なりとも「作品にすること」――それを他者が案内人がかって出てくれる。無用のものと分りきった堆肥の塔を三千部ほど作ってくれる案内人があらわれたという。F氏の涙ぐましい尽力で、私好みの弱小出版社がひきうけると。ウソかホントか知らぬが採算を度外視できる、とその案内人はいってくれているそうな。F氏は、じつは、大出版社にかけあってくれたのであろう、とうてい無理との反応があった気配は察知できる。私のウツは、そういうことの中にはまったくない。結婚しているくせに子供を産まないという非議にこたえるときと同様のウツ状態といえる。
三千部――ボルヘスの、あの三十七部に比して何という大部数であろう。私の仮設の「作品」の読者が三十七人いるとはとうてい信じられない。
それにしても、子を社会に出すにあたっては、多少なりとも親らしい配慮を示さねばならない、それがウツの源となっている。
 
桂離宮とうぬぼれたホッタテ小屋が俗波を受けてもろくもつぶれた! 
小屋の切れハシ材をひろって、波打ち際をトボトボ歩く日々。
一人一小屋主義のダッテ。ダンテならぬダッテ。だって……だって……とグチと弁明で十余年すごしたダッテの末路。







2021/06/09 4:50:51|庵主録録
庵主録録 その4
こゆるぎの浜 3.18 5:55


《1992年冬》
 
こんじょうがひんまがってしまうほどひどい偏頭痛におそわれてえんえんくらやみのなかでくるしみつづけている――そんなときにもモーツァルトオペラは天上の音楽としてひびいてくる。(モーツァルト)オ(ッ)ペラときたらたいしたもんだ。地獄篇を創る素地・素材。ほんとうの病気にかかれば、もちろんそんな事態さえありえない。地獄と地獄篇とはまるで異なるものだ。貧乏をたのしむという文学をかくことはできる、しかしたのしめる貧乏などは土台存在しえないのだ。
 
私は、あたかも、(比喩が十分でない――と、カフカふうにつぶやく)海を泳いでいたはずのイカがスルメの形で乾燥され、人の眼にふれる――ようなプロセスを経てしまっている。
山国育ちの人は、生イカがスルメの姿で海を泳いでいるとサッカクする。
スルメになった私に、生き生きした作品を提出しろというのは、スルメをつかってイカの刺身を作れというにひとしい。
 
「サボタージュ通信」「あんにゃ通信」「TOKИO通信」「さみなし通信」
洞穴暮らしに突入する前に、私はあわただしく通信記者に身をやつす事態をでっちあげた。『木霊集 雑録篇』なるこのノートもその一つだ。要するに、今、従軍記者たらんとする緊張が必要なのである。ただのレポーターではなく、凝縮と集中と選択、そして正確さが要求される従軍記者のような位置。
 
いつか、よどみなく書ける状態が、かりにきても、それはそれで、僕の場合、解放にはつながらないだろう。それはただ「商売人」になったアカシにすぎないのだから。僕のシジフォスぶりを思いおこす。詩量産時代の僕。俳句に絶句するまで二千句をよまなくてはならず、首をおとし、おとされる短歌の戦場で、定型の主体のいかがわしさを痛感するために、ただそのためにおびただしい和歌を、かの「ワカ」のように呻きこぼした歳月。そして、現代詩の‶ゆくところまでゆくんだ″という定型的前衛を制度の書法としてかくぎまんぶりにも、長い手続きをへて、愛想を‶つかされる″ことになった。
十ヶ国語の外国語レッスン時代の、あの、徒労ぶり。これからの散文修業のゆきつく先も、うすうすわかりかけている。
 
Sh.への、のめり込みがはじまる予感。それもオペラ憑きによって、みちびかれた地平。〈音のちからをみちびきとして、私達は進みます〉と『魔笛』の主人公たちは宣言している。私たちはコトダマの力にすがるしかなく、Sh.は〈外〉に位置する最愛の存在である。
私達は、そっと、しのび込む――ヨーロッパ文学の真髄へ。その舞踏会へ。
 
つねにコトバをひきずった音の世界であるオペラ。そして、美術的まなざしの現代的化身である映画。いずれもモダニズムの申し子である。〈私小説〉のリアリティを、これら二つのモダニズムの海中で泳がせる歳月。「人間、おもしろおかしく暮らすほかになにがある?」というハムレットのセリフもこの歳月にはゆるされよう。
外観としてはどうでもかまわぬ。ただ、やはり、「趣味のオペラ・映画」では、紙神への弁解にすらならない。
 
『源氏』も『ユリシーズ』も、遠い山脈のように、かすんでみえる。視力低下、体力一般の劣化。不二なる剣山霊峰がみえなくなり、手持ちの雑木山を売りにだして小銭にかえる僕。
突入するまえから、へきえきしている洞穴暮らしを少しでも快適(あるいは怪敵?)にするために、遠山への遥拝信仰だけはうしなってなるまい。これだけは何の資格もなしにつづけられることなのだから。
熱にとりつかれるのが一歩で、モーツァルト音楽がその最大のトリガーになった。もしもモーツァルトが神の子だとする宗教が在るのなら、すぐにでも入信すると確信――その磁場から、あらためて遠山を望見する。すると、「神の次に」多くを創造した文人Sh.が姿をあらわす。これも直接的快楽にみちているからムリしなくてもよい。しかし作品世界を愉しんだあと、山の中のエコーに耳をかたむける。
たとえば『ユリシーズ』のなかでなされるSh.論を読む。After God Shakespeare has created most.