★ ≪トキメ気≫の[iBOX] ★ [男と女の風景] (短編小説集)

これは、大人のラブストーリーです。 我が人生に、夢よ! もう一度・・!  いつまでも、恋も愛も、いっぱい欲しい。 そんなバーチャル・ラブを、どうぞ・・。 
 
2021/01/21|その他
 ◇ 傷 心 の 海 ◇ 
 
    ≪ お詫び ≫
 
読者の皆さん、先ずは、お詫びします。

 今週は新作が書けずに、バックナンバーで,お許し下さい。
 実は、月曜日の朝に目が覚めたら、頭がガンガンして、執筆どころではなかったのです。
 それは、雲膜下出血ではないかと思われるほどの、初めての激痛でした。
 その思考停止が、火、水曜日にも続いています。
 もう80才に近い老人ですが、今後も頑張りますので、宜しく。
             
                   橘川 嘉輝 拝

 
          2020年1月14日(木) 00:00時 更新
   
                       [男と女の風景・124]

   傷 心 の 海  
 
 山田健太郎は、会社の経理を担当しているが、今日は年度末の決算書に入力するデータをチェックしていた。
 残業が二時間ほどで一段落をしたから、帰ろうかと立ち上がって、ふとオフィスを見回した。
 すると、後輩の武藤がまだ一人残っていて、なにやら書類を作成しているようだった。
 山田はメールの有無を最終チェックしてから、パソコンの電源を落とすと、「おおい、一杯飲もうか」と声をかけた。
 武藤は、それを待っていたかのように、「アッ、いいんですか」と二つ返事を返してきた。
 
 二人は横浜駅の西口に近い赤提燈に入ると、いつもの通りビールで乾杯した。
「先輩、私、彼女にフラれました」
 武藤は、よっぽど胸に痛く応えていたのか、いきなり本題を言い出した。
「オー、そうか。何が原因だ」
「ええ、僕の他に、いい男が出来たらしいんです」

「オイ、武藤、それは結果だろぅ。オマエの何が悪かったか、が、原因だよ」
「アアッ、そうですね。でも、それが判らないんです」
 山田に、痛い所を突かれて虚ろな目をすると、ただうな垂れるだけだった。
「君なぁ、きっと彼女は、ずっと何かを我慢していたんだ」
「エッ、何をですか」
「オイ、それをオレに聞くのは、お門違いだろ。いいか。彼女に頭を下げて、ようく聞いてこいよ」
 武藤は、考え込んだが、思い当たることがないのか、独り首を振っている。
 山田は入社して五年、武藤はまだ二年生の若手たちで、二人はなにかとつるんでは、こうして酒を飲んでいた。
 
「アラ、あなた達、ここにいたの」
 いきなり声をかけられて、二人が顔を上げると、先輩の鳥海直美が、酔って真っ赤に染まった顔で立っていた。

 ふと気になって、反射的に店の奥を見回すと、そこには、なんとお局様の大藤女史の顔が見えたのだ。
 この女性達、二人は、ともに職場の大先輩で、大藤はもう40代だったが独身で、経理のOLとして頑張っていた。
 しかも、もうベテランだけに、仕事のことを聞けば、なんでも判る生き字引だった。
 鳥海は30代の既婚者だったが、お局様の侍従と密かに言われていて、ナンバー・ツーを自認していた。
「ねぇ、一緒に飲まない」
 女性二人は、もっと早い時間から飲んでいるようで、もうかなり出来上がっていた。
 山田は、相手が大先輩であり、しかも女性だったから、内心では一緒に飲むのを渋っていた。
 だが、小さなバッグを肩にかけると、自分のジョッキを持って直ぐに立ち上がった。
――ここで会ったが、百年目だよ。
  スパッと、潔くしないと・・。
 そんな様子を見ていた武藤も、慌てて移動する体制に入った。

 
 四人掛けのテーブル席につくと、若い二人は通路側に向かい合って座った。
「大藤さん、同席でと言われまして、失礼します」
「ええ、どうぞ」
 もうお局様も赤い顔をしていて、若者たちを見ると上機嫌で迎えた。
「ところで、武藤ちゃん、彼女とはうまく行ってるの」
「エッ・・、ああ、フラれました。でも、なんで、知ってるんですか」
「何を言ってるの、私は地獄耳よ。そんな情報なら、いっぱいあるわ。ただし、山田ちゃんのは、まだ聞こえてこないわね」
「ええ、僕は引っ込み思案で、そういうのは苦手なんです」 
「確かに、山田ちゃんは、仕事は積極的で真面目だし、人柄が誠実なのよ」
「ウン、そうなの」
 鳥海が褒めると、お局様も、日頃見ているコメントを言った。
「イヤな仕事も、イヤな小言も、マトモに受け止めて、逃げないの・・。将来性を感じるんだなぁ」
 酒に酔った乗りで、女性同士はざっくばらんに話をしていた。
 
 しばらくして、大藤がまた、ふいっと思い出したように話し出した。

「武藤ちゃん、あなたの彼女、秘書課の可愛いらしい一年生でしょ」
「ええ、まぁ・・」 
 酔っ払って、しかも機嫌を悪くしたお局が、やんわりと絡み出した。
「あなたねぇ、あの子は、オレに惚れてるって、思ってるでしょ」
「いやぁ・・」
「だから、いつもあの子には、態度が大きいのよ。あの子は大人だから我慢するけど、あなたが威張れば威張るほど、それだけ小物に見えてしまうのよ」
「ハア・・。でも、そうかも・・」
 武藤は、まさかのことをズバリと指摘されて、しょんぼりとしてしまった。
「武藤ちゃん、二人は相思相愛でしょ。男女同権でしょ。仕事が優先なのは判るけど、彼女の願望に応えられないなら、頭を下げて、ごめんて、言えばいいのよ」
――ああ、流石にお局様だ、職場でよく見てるよ。
  しかも、具体的に指導してる。
  人は、こうやっていびられて、成長していくのかも・・。

 鳥海はずっと黙っていたし、武藤は意気消沈したままで、もうお局の独断場になってしまって、テーブル全体が白けてしまった。
「オイ武藤、大いに反省して、彼女に詫びを入れとけよ」
 仕方なしに、山田はあえてきつく言った。
 するとお局が「さて帰ろうか」と言い出して、店員にチェックのサインを送った。
 
 それから四人は、横浜駅で別れたが、大藤は藤沢から小田急で善行だったし、山田健太郎は本鵠沼だったから、二人は藤沢まで一緒だった。
 だが、電車が藤沢駅のホームに入る時、吊革に掴まってウトウトしていた大藤が、パッと目を開けた。
すると「山田君、もう一軒、飲もうか」と言い出した。
 大藤は、もうかなり飲んで、酔っているはずだったが、人はこういう時こそ、かえってもっと飲みたくなるものだ。
 山田も、一人で飲み直したい気分だったが、先輩から言われて従うしかなかった。
 
 連れて行かれたのは、千鶴子と言うスナックだった。
 大藤がドアを開けると、「アラ、お姉さん、お帰りなさい」と、ママの甲高い声が飛んできた。
「ここのママはね、本名が千鶴子で、私の妹みたいな子なの・・」
 山田は頷きながら、そっと店内を見回すと、ツルの折り紙が壁のあちこちに貼られていた。
 そして、大きな目立つスペースには、隊列で飛ぶツルの群れが見えた。
 さらに、カウンターの隅には、花瓶に生けた花と並んで、千羽鶴が何本も垂れ下がっていた。
――ああ、このママって、自分を可愛がるナルシストかな。
  それとも、相当にプライドの高い人かも・・。
  こんな女性の、素顔が見たいな。
 山田は、ツルを飾る店の雰囲気から、密かに興味津々になっていた。
「山田君、このツルたちはね、みんなお客さんが記念に折ったのよ。ここで飲んだ思い出にね」
 店の中を物珍しそうに見回している山田を見て、大藤が自慢げにフォローした。
 山田が、水割りを作っているママを改めて見ると、和服の上に、地味な絣の半纏を着ていた。
――ああ、日本昔ばなしの鶴の恩返し、そんな素朴な風情だな。
  ほのぼのとして、気が休まるよ。
 山田は、一緒に来た大藤よりも、ママに興味を持ってしまった。
 
 大藤寿子(トシコ)は、ママに「この子は山田健太郎君で、うちの職場のヤング・ライオンではナンバー・ワンなの」と紹介した。
 ママは、眩しそうに健太郎を見ると、「千鶴子です」と名乗った。
「でも、この折鶴のデコレーション、いいですね。この雰囲気、僕は好きですよ」
「アラ、嬉しい」
 それから三人で乾杯を終えると、健太郎は、ボトル棚のガラス戸に貼られたツルの切り絵を眺めていた。
すると、ずっと俯いたままの寿子が、ボロッとこぼした。
「千鶴ちゃん、私ね、今日はハートがブルーなの・・」
 それを聞いて、千鶴子と山田は思わず顔を見合わせた。
「お姉さん、どうしたのよ。今日は、変よ」
「ウーン、一人暮らしだとね、家に帰りたくない時が、あるの・・。だってね、部屋に入ると、寒々としていて、身も心も凍えそうになるの・・」
「ああ、判るような気がするな」
「そうなのよね。ハートの中を寒い隙間風が、スーッと抜けていくのよ」
 山田は、そんな独身女性の感覚が判らずに、ただ黙って聞いているしかなかった。
――会社では、生き字引の大御所なのに、ハートは寂しいんだ。
  だってさ、こんな高級なスーツでビシッと決めて、
  知的なレディ然としてるのに・・。
  人って、判らないものだな。
  もう何十年も、孤独を引き摺ってきて、
  さらに何十年も、引き摺って行くのかも・・。
  でも、オレだって、そうなるかもな・・。
 山田は、隣の席でふさぎ込む大藤寿子が、なんとも哀れな女に見えてきた。
――でもこの人、確か東女(トンジョ・東京女子大)だったよね。
  オレより、偏差値がずっと高い大学、しかもベテラン、
  近寄り難い大先輩だけど・・、
  でもやっぱり、一人の女なんだ。
 
 寿子は、独り俯いたまま、グラスの氷を指先で掻き回していた。
 そして、顔をしかめながら濃いウイスキーをグイッと飲むと、なぜかフィッと気落ち して急に涙ぐんだ。
「私にはね、昔、大好きな人がいたのよ。そう、お見合いだってさ、三回もしたのよ。でもね・・」
 寿子は悲しそうな顔をすると、必死な思いで、次の言葉を飲み込んだ。
 そんな辛そうな様子を、二人は見ないフリをしていたが、実は何気なく目の隅で見ていた。
「私って、ついてないのよね」
 寿子は、かすれた声でぽつりと言った。
「でもさぁ・・、なぜかなぁ。・・悪霊でも、憑いているのかなぁ」
 寿子は、またグラスを手にすると、冷えただけの濃いウイスキーを、あお向けになってグイッと飲んだ。
――ああ、先輩、それってヤバイでしょ。
  腰が抜けますよ。
「ああ、誰か私を助けてよ。あの世に引きずり込まれそうなの・・」
 寿子は、悲痛な思いを叫ぶと、ガックリとうな垂れた。
 
 暫くの間、そこの場には、沈黙だけが漂っていた。
 だが、いきなり寿子が顔を挙げた。
 すると寿子が、さり気なく腕時計を見たので、健太郎もそっと覗くと、もう10時を回っていた。
「ああ、私、帰ろうかな。タクシーをお願い」
 目はうつろだったが、正常な意識は持っているようだった。
「それで、山ちゃんは、どうする」
「あっ、僕は歩いても近いし、もう少し」
 寿子は、判ったとうなずくと、ママにチェックを頼んだ。
 山田は、自宅まで歩くと30分はかかるが、ここは一緒に帰りたくなかったのだ。しかもママに興味があったし、もう少し話がしたかったのだ。
 暫くして、タクシーが来たとの電話が入って、寿子は立ち上がったがよろけてしまって、慌てて山田が立つと支えてやった。
 すると、いきなりだった。
 寿子が振り向きざまに、山田に抱きつくと、プチュッとキスをしてきた。
 もつれた二人は、固定された丸椅子の背中で支えられていたが、寿子は濃厚なキスを離さなかった。
「お姉さん、お車が来ましたよ」
 ママの呼びかけで、やっと離れると、淑子はチョッと気まずそうな表情を見せたが、そのまま出て行ってしまった。
――ああ、嵐のように襲われたな。
  明日、会社で目が合ったら、どうすればいいんだよ。
 だが、健太郎は、初めてのキスだったし、なにか不潔感を感じて、思わずオシボリで口を何度も拭いていた。
――でも、あの人、覚えてないって、トボケるだろうな。
  だから、素知らぬ顔で、普段通りにやればいいか。
 
 ママが見送りから戻ると、「お疲れさま」と言って、新しいオシボリを出してくれた。
「あなたみたいな潔癖症の人は、綺麗さっぱりとね」
 ママは、健太郎が強引にキスをされて、嫌がった気持を判っていたのだ。
「でも、今日の寿子さん、ちょっと変だったわね。あんなの初めてよ」
――ああ、あの人を、尊敬してたのにな。
  でも、中年の女性って、飲むと大胆に本性を出すのかも・・。
  あんな寂しがり屋で、涙ぐんでたのにな。
  出来る女は、多面的で、豹変するのかも・・。
  ああ、混乱して、本性が見えないよ。
 
 それから健太郎は、ママをうっとりとした目で見ていた。
千鶴子は、地味な紺絣の半纏を着ていて、髪を掻き上げたその襟元に、白い首筋が艶めかしく見えた。
「ママさぁ、ママも寂しがり屋ですか」
 健太郎は、気分を損ねないようにさり気なく聞いた。
「ええ、そうよ」
 そう応えたママが、チラッとカウンターの奥に目をやった。
 それを見逃さなかった健太郎も、その視線の先に目をやった。
――エッ、奥に客がいたんだ。
  ああ、気付かなかったな。
  僕たち、この店を貸し切ってたよ。
 そこには、高級そうなダーク・スーツを着こんで、太った貫録のある紳士が、一人静かに飲んでいたのだ。
 しかも、その前に若い女の子が立って、話し相手になっていた。
 
 ママが健太郎を見て、一呼吸を置くと話を続けた。
「でも私は、他人には頼らないの・・。そう、私のポリシーはね、人とは群れず、人には媚びず、頼らずなの・・。だから、自分の孤独をエンジョイしてるの・・」
「ホゥ、カッコいいですね」
「いえ、そういう環境で育っただけよ。いつも、独りぼっちだったから、そんな毎日が普通だったの・・」
「では、家族は・・」
「私は、遠い親戚の家で育てられたの。だから天蓋孤独よ」
 そう言われても、健太郎には、それがどんなものか想像もできなかった。
「ああ、社会勉強になりますね。世間知らずの未熟者には、得るものがいっぱいありますよ」
「でも、あなたは、いい育ち方をしてますね。人柄に歪みがないですもの」
「ママにも、歪みは感じませんけど・・」
「そうかな・・」
 ママは、トボケたように、あえて丸い瞳を天井に向けた。
「私はね、本心を見せないように、明るく振舞う演技が、いつの間にか身に着いたのよ。きっと、保身のためかも・・」
 ママは、三十代の後半だったが、まだ若い健太郎に謎めいた微笑を浮かべていた。
 
 グラスに残った水割りをグイッと飲むと、健太郎を見つめ直した。
「私はね、遠い青春時代は、あなたみたいな純朴で、ハートがリッチな人に憧れていたんです」
――エッ、まさか・・。こんなオレみたいなヤツに。
「そう、漫画に描かれたカッコいい貴公子、それが理想だったな。でも、そういう男性に、散々騙されましたけれどね・・」
「では、ママも男にはついてなかった・・」
「ええ、そう。見た目はいいけど、根性なしのヤワな男性ばっかりでね」
「では、僕はダメ人間だから、失格ですよね」
「そうかな。そうは見えないよ。だって、自分からダメって言う人に、ダメな人はいないもん」
「僕はね、さっきキスをされたでしょ。27才で、あれがファースト・キスなんです。ええ、女性と付き合ったことがないんです」
 ママは、思わず口に手を当ててくクスクスと笑った。
「可愛い坊やよね。でも、それを、胸を張って言えるのは立派よ」
 健太郎はオタクで、あまり飲みに出かけないから、こんな出会いもないし、会話もなかった。
 だが今は、酔った勢いで前のめりになって、少し雄弁になっていた。
 
「ああ、ママを見てるだけで、いいお酒が飲めますね」
「まぁ、嬉しい」
「今度、この店に、一人で来ていいですか」
「ええ、どうぞ。何時だって、お待ちしてますよ」
「ところで、あの大藤さんとは、親しいんですか」
「ええ、まぁ・・。あの方のお友達が、古い常連さんでしてね。あの方は、月に1、2回ですかね」
――なぁんだ。先輩は、私の妹って、威張っていたのに・・。
  でも、面白いよな。飲むと威張って、本性が出るなんてさ。
  しかし、先輩は、いい店に案内してくれたよ。
 すると、ドカドカッと若い男達が3人入ってきた。
 それから、健太郎はママが3人に酒を出すのを待って、店を出てきてしまった。
  
 あれからは、健太郎は、仕事帰りが遅くなっても、スナック・千鶴子へは週に何回も通うようになった。
 独身だったから飲み代には困らなかったし、それ以上に、あの優しい笑顔がたまらなかった。
 いつも上掛けで着ている紺絣の半纏が、いかにも日本的で、ホッとする田舎の若いお袋のように見えて、どこか遠い懐かしさに出会うのだ。
「出身は、どこですか」
「山形の月山の麓、鶴岡市の外れなんです」

 その言い方が、恥らうようであり、自慢するようでもあって、その故郷を思う微妙な表情に、健太郎は感慨深いものを感じていた。
 たが、カウンターの奥では、いつもダークスーツの男が黙々と飲んでいた。
 健太郎は、その後姿が、どうしても視線に入ってきて気になってしまうのだ。
 
 そんなある日、お局様と職場の新人歓迎会で飲んだ時に、健太郎は聞いてみた。
「スナックの千鶴子さんは、独身ですよね」
「まぁね。でも、あの子にはパトロンがいるのよ」
「エッ、それってなんですか」
「あの子をサポートする男」
「もしかして、あのいつもいるダークスーツの男ですか」
「そう、地元の不動産屋でね。あの子にぞっこんなの・・。だから、あのお店を出してやったのよ」
「では、もう二人は出来てるのかぁ・・」
「そうかもね」
――でも、あの人、人には頼らないって、言ってたよなぁ。
  ウーン、その矛盾、本人に聞いて見よぅ。
「山田君、あなたも、千鶴子に惚れたんでしょ」
「いえ、そんなことは・・」
「嘘よ。顔に書いてあるわ。千鶴子が好きだってね。でも、忠告しておくわ、止めなさい、ってね」
 健太郎はがっくりすると、悲しそうな顔を見せた。
――でも、オレは、勝負をかけてトライしてみるよ。
  そうしないと、納得できないしな。
 寿子はふと、そんなに猪突猛進で、一途に追いかける健太郎が不憫に思えた。
 それは、まるで弟のような、自分の子供のような、そんな家族に対する愛情を感じたのだ。
――アレッ・・、もしかして私、この男にご執心かも・・。
  そうよ。無垢な純粋さに憧れているかも・・。
  ああ、ヤバイ・・。
  だって、一回りも下の坊やよ・・。
  まさか、あり得ないよ。
 
 それから、ある日、山田はいつもの通り残業をして、若手の武藤と横浜駅に近い赤提燈で飲んだ。
「オイ、あの子とは、修復したか」
「いやぁ、ダメでした」
 ビールのジョッキが来る前に、山田が聞くと、ガックリとうな垂れている。
「オイ、覆水盆に返らず、だな。反省しろよ」
「はい。勉強になりました」
「まぁ、そういう失敗から、人間関係のあり方を学習していくのよ」
「はい」 
 ビールが届いたところで、二人は気落ちして弱々しい乾杯をした。
 武藤は、それからもただ溜息を吐くばかりで、意気が上がらなかった。
 
「アッ、そうだ。先輩、あのお局様が、うちの経理部長と出来てるかも、って、そんな噂があるんです」
「ナニィ、まさか・・。それって、不倫だろ」
 山田は、そんなことがあるとは信じられなかった。
「だって、あんなに厳格で、威張っていてさ、社長とも平気で対等に話す人が・・。有り得ないだろぅ」
「でも、先日やった新人歓迎会の後で、二次会でカラオケに行った連中のある男が、帰りに部長とお局様がラブホテルの方から来たのを、見たらしいんです」
「フーン、まぁ、あり得るかもな」
「それで、実は先輩、僕はですね、ナンバー・ツーの鳥海さんから聞いたんです」
「ほう」
「二人が出来てる噂を、さり気なく聞いたら、『アラ、あの部長が、30才の主任時代からそうみたいよ』だって」
「エエッ、それってヤバイでしょ」
「どうも、知る人ぞ知るで、他の部課長さんは、何人か知ってるみたいですよ」
――そうか、それで未だに独身なのか。
  そう、バックがいるから、お局様なんだ。
  フーン、相思相愛なら、セクハラにならないのか。
  でもさ、部下としては、なんか複雑な心境だよな。
  オーイ、うちの会社、どうなってるんだ。風紀が乱れてるぞ。
 それから、しばらくの間、山田は仕事の話をしてから、武藤と別れた。
 
  山田は、9時に藤沢に着くと、千鶴子の顔を見たいとはやる気持ちを抑えながら、勇躍して千鶴子の店に行った。
 いつもの通り、何気にドアを開けて入って行ったが、ふと、カウンターの近い場所にいる二人組が目に入った。
――アレッ、この女の人、もしかしてお局さん・・。
  確かそうだよな。あの長い髪・・。あのファッション・・。
  エッ、そうなら、この男は・・。
 山田は、お局の寿子が、男性の肩にしっとりと頭を傾けて、親しげに馴染んでいる光景を見てしまった。
 そんな信じられない様子を見ると、相手の男性の顔が見たくなった。
――エッ、もしかして、あの男、経理部長・・。
 山田は、確信が持てなかったが、職場で見る部長の、そんな後ろ姿に見えた。
 慌てて背を向けると、カウンターの中から見ていたママに手を挙げて、ドアを開けると出て行ってしまった。
 
 その後、健太郎は、千鶴子に食事を一緒にしたいと懇願して、やっと実現した。
 ただし、日曜日のランチで、2時過ぎには用事があるからと、指定された日のわずかな時間しかなかった。
「僕はね、あなたを見ているだけで、幸せな気分になれるんです」
 もう千鶴子に惚れてしまった健太郎は、かつて経験したことがない程、気持が舞い上がってしまい、有頂天になっていた。
 二人の目の前にステーキが届いて、食べ始めてからも、健太郎は嬉しそうな顔で、ひたすら鶴子を見ながら食べていた。
 
「千鶴子さん、先日、お店で寿子さんが肩を寄せていた男性って、誰ですか」
「ああ、あの人かぁ・・。昔、クラブにいた時からの常連さんなの・・。たまに顔を出してくれるのよ」
 千鶴子は、他の客に関する余計なことは話さないようにしていたから、当たり障りのないことを言った。
 それからは、それを悟られないようにトボケると、カウンターの向こうで焼け具合を見ているシェフの手さばきを覗き込んでいた。
「もしかして、宮下さんでしょ」
「さぁて、どうでしょう」
――いやぁ、あれは絶対に宮下部長だよ。
  この人、案外と口が堅いんだな。
「そうか。宮下さんは、昔っから、高級クラブに行ってたのか」
「いえ、接待で来られてたの・・」
 千鶴子はそう言ってしまってから、あの男が宮下であると認めたことになってしまうと、フッと気づいた。
「銀行の支店長と一緒にでしょ」
 健太郎に追及されて、目を虚ろに泳がせながら、もう黙々とステーキを食べるしかなかった。
 
「アッ、そうだ。会社の寿子先輩に聞いたら、あなたにはサポーターがいるのでは、って、言ってましたけど」
「ああ、あの不動産屋の赤木さんですか」
 千鶴子は、なんのためらいもなく、さらりと応えた。
「ええ、私、あのお店を出す時、彼に借金はしましたよ。でも、必ず返すつもりなの・・。そう、ビジネスとして、ちゃんと契約書を作りましたから」
「それだけですか」
「ええ、そう。だから、あの人には、なにも負い目はないの・・」
「ああ、そのケジメのあるプライドって、素晴らしいなぁ」
――そうか。二人は出来ていなかったんだ。
  だったら、思い切って告白しよう。
 
 それから、健太郎は決意を固めると、勇気を振り絞って話し出した。
「千鶴子さん、僕はあなたと結婚したいんです。お願いします」
「エッ、なにを言うの。ダメよ。私なんかとは・・」
「いえ、一途にそう思っている自分が、ここにいるんです。はい、僕は、こんな自分の思いに、正直に応えていきたいんです。だから、どうかお願いします」
 千鶴子は、必死に、切々と訴える健太郎を、驚きの目でじっと見つめていた。
 だが、その必至さは、赤ん坊のように全く純真だったし、嘘がなかった。
――ああ、こんな人と、10年前に会いたかったよ。
  これも、ついてない私の運命なのよね。
  そう、ダメな男を何人も見て来たよ。
  でも、仕事の出来るヤング・ライオンなんて、初めてだな。
  私、サラリーマンの世界は知らないけど、
  この男、仕事中の顔は、きっと違うんだろうな。
  ああ、アンタも、貧乏くじの女だよね。
「あなたね、もっと若い子が、周りにいっぱいいるでしょ。私はもう三十路の後半よ。あなたとは10才も違うの・・。こんな中年の女になんて、振り向いてはダメよ」
「でも、僕は、好きになっちゃったんです」
 健太郎は、切実な告白をしながら涙目になってしまい、下を向いたまましょんぼりとしていた。
 
「でもね。仮にあなたと結婚しても、私は、あのお店を続けたいの・・。そう、あれが、10年かけて、やっと築いたお城なのよ」
「あぁ・・、そうなのか」
「そうなの・・」
――私はね、お店を持つのが夢だったのよ。
  だから、二十歳でクラブに入って、必死に働いたわ。
  そして、地味な貧乏暮らしをして、貯金を溜めたの・・。
「だから判って・・、私ってね、夜の世界にしか飛べない蛾なのよ」
「いや、蝶々だよ」
「いいえ、私は天涯孤独の女。身寄りがないんです。だから、自分の保身しか考えないの・・」
「ええ、僕は、それでいいですよ。僕は一生、あなたを護りますから」
「あなたねぇ、判って・・。夜の世界でドブ汁を啜った者はね、もう平凡な主婦にはなれないの・・」
「いや、主婦でなくてもいいですよ」
 千鶴子は、どういっても聞き入れてくれない健太郎に、イライラしていたし、うんざりもしていた。
「本当のことを言えばね、私は、家族を作るとか、家庭を築くとか、それがなんなのかを知らないの・・。だから私なんて、お願いだから、放っておいて・・」
「いやぁ、放っとけないですよ」
 健太郎は、本気になってすねると、膨れっ面をして見せた。
「そんな駄々を言わないの。だって、あなたは育ちのいいお坊ちゃまでしょ。私の過去は泥まみれで、あなたとは隔世の違いがあるのよ」
 健太郎は、ここまで言ってもダメだと感じて、もう黙り込んだままステーキを頬ばるしかなかった。
 
 それから次の週、3連休の中日に、お局の寿子は健太郎を誘った。
 去年も観覧したのだが、寿子が通う絵画教室の展示会があって、藤沢仲間として是非とも観てほしいと頼まれたのだ。
 先輩から頼まれると、それがまるで上司からの業務命令のようで、健太郎は断りたくても、従うしかなかった。
 だが、寿子の油絵は、花や風景や静物画を描いても、大胆な構図と筆遣いが個性的で、健太郎は内心、感心して見ていた。
 しかも,筆致はその特徴をよく捉えていて、その画風には見応えがあった。
 だから、絵が下手な健太郎には、賞賛と尊敬の念が湧いていた。
 特に、寿子が好んで描く江の島は、南側の切り立った茶色の崖と、深い緑の木々をどう描くかが、ポイントだという。
 寿子は、健太郎にそんな話をしていて、ふと江の島が見たくなったのだ。
 夕暮れにはまだ時間があるのを見計らって、健太郎を誘った。
 
 だが、小田急線に乗っても、海岸に着くまでも、二人は俯いたままで、ほとんど会話がなかった。
 それぞれに、気持の中にわだかまっている問題を抱えていて、思い出してはどうしたものかと考え込んでいたのだ。
 それは、現在生きている自分、未来に生きようとする自分、その在り方を方向付ける重要なテーマだったのだ。
 それからも、寿子と健太郎は、片瀬西浜に伸びる遊歩道の縁石に座って、ただぼんやりと海を眺めていた。
 冬の弱い夕日が、もう箱根連山の向こうに落ちていた。
 晴れ渡った寒空は、さらに深い青みを増してきて、その中空には白い満月がかかっている。
 二人の目の前には、穏やかな海が広がっていたが、江の島の島影も、暮色の中で次第に暗い闇の中に沈もうとしていた。
 
 健太郎は、我慢できずに、小さな声で自分を語った。
「大藤さん、僕は千鶴子さんにプロポーズをしました」
「そうなのか・・。でも、その言い方だと、フラれたみたいね」
「ええ、年の違いもあるけど、育ちが違うって、言われました。あの人、子供の頃から遠い親戚の人に育てられてきて、天涯孤独だって・・。だから普通の主婦にはなれないって、言ってました」
「ウーン、そうかもね。あの子は、水商売が、もう体に染み込んでるのよ」
「はぁ・・、それって、どういうことですか」
「お客様には、笑顔で優しく接するけど、本当はね、根性が悪くて、ドケチで、自分本位かもよ」
「ああ、それらしいことは、本人も言ってました」
 寿子は、人生経験が長いだけに、女の正体をいっぱい見てきたから、笑顔に隠された女の裏側を語ってやった。
「でも、あの子はね、他人の世界で揉まれてきたし、理知的で頭の回転がいいから、自分の本性を自覚しているのよ。あの子は、そこが素晴らしいの・・」
「しかも、優しさと気配りは、最高ですよね」
「そう。それが、水商売の極意なのよ。でもまぁ、確かに、あなたの生い立ちとは全く違うからね。一緒に暮らすと感情がすれ違ったり、摩擦を起こして、結婚しても長続きしないかも・・」
「そうですかね」
「そう。きっと、あの子とは結婚しないのが正解なのよ」
 健太郎は、そう言われても自分の気持が整理できずに、まだ未練を引きずったままだった。
 ふと見上げると、さっきまで青く見えた大空はもう暗くなって、満月が青白く輝き出していた。
 
「でも、健太さん、私も彼にフラれたの・・」
 寿子が前を向いたまま、ポツリとこぼした。
「そうなの・・。考えた末に、彼と別れることにしたの・・」
「宮下部長と、ですか・・」
「アラ、私たちのこと知ってたの・・。あなたも、地獄耳ね」
 そう言われても、気分が沈んだ健太郎は、黙ったまま応えなかった。
――そうよね。あの人と付き合って、もう20年も経つのよね。
  でも、あの人、主任時代は輝いていたな。私、憧れてたのよね。
  それから、愛人をズルズルと引き摺ってきて、
  不倫もマンネリだったの・・。
  でも、学んだことも、身に着いたこともなかったな。
  だってあの人は、セックスを求めるだけだったから・・。
  そう、私は性欲の捌け口だったのよ。
  でも私だって、あのエクスタシーで、何もかも忘れられたけど・・。
  そう、忘れたい自分、見たくない毎日、そんな現実逃避が出来た。
  でも今、思えば、単に生きてきた。単に命を消耗してきた。
  そんな、20年だったかも・・。
 寿子は、宮下部長と付き合ってきた過去を、無意味だったと悔いていた。
「アア、ダメな自分が不甲斐なくて、哀しいのよね」
 寿子は、息も絶え絶えに、掠れた低い声で呻いた。
「健太さん、チューをして・・」
「ダメですよ。そんなのは、なんの慰めにもならないんです」
 健太郎は、先日、酔っ払った寿子が、よろけた勢いで抱きついてきて、プチュッとしたのを思い出した。
 なんで、先輩がそうしたのかは判らなかったが、そんな戯言でする余興のキスはしたくなかった。
 
「でも私、これから一人で生きていけるのかな」
「先輩、大丈夫ですよ。だって今日見たあの油絵、先輩らしい生命力に満ち溢れていましたから・・」
「アッ、そうか。そう言ってくれると、嬉しいなぁ」
 寿子は、一瞬で笑顔を取り戻した。
「そう、私には絵を描くチャンスがまだ残っているのよね。それが生きる原動力になるかも・・」
「そうなんです」
 寿子は、単なる趣味で油絵を描いてきたが、そんなところに活路があるなんて、改めて知った。
「ええ、自分を表現して、自分を主張すること出来るって、素晴らしい事なんです」
「あなた、いいこと言ってくれますね」
 寿子は、俄然として生き生きと目を輝かせてき。
「ええ私、単なる慰めなんて、欲しくなかったのよ。でも、あなたは、私の生き甲斐を褒めてくれた。それが、なにより嬉しいの」
 寿子は、暗闇に光を見つけたような、そんな晴々とした気分になっていた。
 
 健太郎は、じっと暗い海を見つめていたが、ふと見えない水平線をたどって蒼天を見上げた。
「先輩、心に傷を負った者同士、ここで誓いませんか」
「えっ、なにを誓うのよ」
「絶対に生きながらえて、新しい自分をクリエイトする、って・・」
「ああ、健太さん、有難う。そうだよね」
「このいま見ている片瀬の海、それを見下ろしているのが、あの寂しげな月です。僕はあの月に誓います」
「あなたがそうなら、私は、片瀬の海をジッと見ている江の島に誓うわ。絶対にひと皮、剥けて、新しい自分をクリエイトするってね」
 寿子は、思わず手を差し出すと、健太郎に握手を求めた。
――ああ、私は、健太に救われたよ。
  絶望的だったこの1週間、
  フラれたダメージで、恥も外聞も亡くして、崩れ落ちそうだったのに・・。
  そうだよ。健太だって、心に傷を負っているのにさ。
  ああ、こんなに坊やに見えても、男はやっぱり逆境に強いんだね。
  健太の図太さを、改めて見せつけられたな。
  もう、感謝、感謝だよ。
 
                        ― おしまい ―
 
 

 





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