★ ≪トキメ気≫の[iBOX] ★ [男と女の風景] (短編小説集)

これは、大人のラブストーリーです。  人は誰しも、ファザコン、マザコンによる願望があり、それを達成する行動をとります。その生まれ、育ちで、パーソナリティが形成されて、その体験が、深層心理やトラウマとなります。  そんな男と女が出逢って、その心の奥底から求め合う≪願い≫、そんな愛の物語を、フィクションで・・。
 
2018/02/15|その他
 ◇ 傷 心 の 海 ◇  [男と女の風景・124]
 
 
                         2018年2月15日(木)
 
  − 我が家のベランダ・ガ−デン −

    ○ 1月の山野草 ○

 先日、2月11日(日)の建国記念日に、私が住む町内で、社協が主催するフェスタが開催されました。
 ≪老人憩いの家≫の舞台では、バイオリンや二胡の演奏があり、手品などが披露されました。
 また、小学生の絵画や手芸、押し花などの展示に交じって、私も年賀状の版画と山野草を4点、展示しました。
 今回は、その2点と、版画の展示を紹介します。
 なお、他の二点は、マツザカシダとイワヒトデです。
 
  ≪写真・左・・クラマゴケ≫
 ご覧のように、この氷点下の冬の時期でも、こんなにも青々と盛り上がった緑が、私は大好きです。
 鉢は30x20センチもあり、これだけ10センチも高く繁ってくると、もう見惚れてるだけで幸せを感じます。
 
  ≪写真・中・・石化トキワシノブ≫
 これは、鉢から30pも高くそびえています。
 おぼろげな記憶ですが、推定30年は経つものです。
 しばらくベランダの隅に放置していたため、枯れかかったのですが、二年前に補修をして蘇りました。
 ノキシノブには、八重忍と常盤忍があります。
 ここで言う石化とは、≪化石化≫した風情があるため、そう言っています。
 これは、通称≪猫の手≫と呼ばれていて、しかも葉の先端が二つに分岐しているため、珍品であり、貴重品です。
 
  ≪写真・右・・版画の年賀状≫
 

 

                     [男と女の風景・124]
                      ― つづき 2 ―

  ◇ 傷 心 の 海 ◇ 
 
 
 それから、健太郎は、仕事帰りが遅くなっても、スナック・千鶴子へは週に何回も通うようになった。
 独身だったから飲み代には困らなかったし、それ以上に、あの優しい笑顔がたまらなかった。
 いつも上掛けで着ている紺絣の半纏が、いかにも日本的で、ホッとする田舎の若いお袋のように見えて、どこか遠い懐かしさに出会うのだ。
「出身は、どこですか」
「山形の月山の麓、鶴岡市の外れなんです」

 その言い方が、恥らうようであり、自慢するようでもあって、その故郷を思う微妙な表情に、健太郎は感慨深いものを感じていた。
 たが、カウンターの奥では、いつもダークスーツの男が黙々と飲んでいた。
 健太郎は、その後姿が、どうしても視線に入ってきて気になってしまうのだ。
 
 そんなある日、お局様と職場の新人歓迎会で飲んだ時に、健太郎は聞いてみた。
「スナックの千鶴子さんは、独身ですよね」
「まぁね。でも、あの子にはパトロンがいるのよ」
「エッ、それってなんですか」
「あの子をサポートする男」
「もしかして、あのいつもいるダークスーツの男ですか」
「そう、地元の不動産屋でね。あの子にぞっこんなの・・。だから、あのお店を出してやったのよ」
「では、もう二人は出来てるのかぁ・・」
「そうかもね」
――ああ・・、残念だけと、悔しいな。
  でも、あの人、≪人には頼らない≫って、言ってたよなぁ。
  ウーン、その矛盾、本人に聞いて見よぅ。
「山田君、あなたも、千鶴子に惚れたんでしょ」
「いえ、そんなことは・・」
「嘘よ。顔に書いてあるわ。千鶴子が好きだってね。でも、忠告しておくわ、止めなさい、ってね」
 健太郎はがっくりすると、悲しそうな顔を見せた。
――でも、オレは、勝負をかけてトライしてみるよ。
  そうしないと、納得できないしな。
 寿子はふと、そんなに猪突猛進で、一途に追いかける健太郎が不憫に思えた。

 それは、まるで弟のような、自分子供のような、そんな家族に対する愛情を感じたのだ。
――アレッ・・、もしかして私、この男にご執心かも・・。
  そうよ。無垢な純粋さに憧れているかも・・。
  ああ、ヤバイ・・。
  だって、一回りも下の坊やよ・・。
  まさか、あり得ないよ。
 
 それから、ある日、山田はいつもの通り残業をして、若手の武藤と横浜駅に近い赤提燈で飲んだ。
「オイ、あの子とは、修復したか」
「いやぁ、ダメでした」
 ビールのジョッキが来る前に、山田が聞くと、ガックリとうな垂れている。
「オイ、覆水盆に返らず、だな。反省しろよ」
「はい。勉強になりました」
「まぁ、そういう失敗から、人間関係のあり方を学習していくのよ」
「はい。でも、あの子、私とのことを、秘書課の先輩に相談したらしいんです。そしたら、親身に話を聞いて、温かく慰めてくれたそうなんです。それであの子、その優しさにホロッとして、出来ちゃったらしいんです」
「おお、そうか・・。決め手は、優しさか。でも、そんな情報、よく判ったな」
「同期の前田に、聞いて回ってもらったんです」
「じゃあ、今日は、残念会だな」
 ビールが届いたところで、二人は気落ちして弱々しい乾杯をした。
 武藤は、それからもただ溜息を吐くばかりで、意気が上がらなかった。
 
「アッ、そうだ。先輩、あのお局様が、うちの経理部長と出来てるかも、って、そんな噂があるんです」
「ナニィ、まさか・・。それって、不倫だろ」
 山田は、そんなことがあるとは信じられなかった。
「だって、あんなに厳格で、威張っていてさ、社長とも平気で対等に話す人が・・。有り得ないだろぅ」
「でも、先日やった新人歓迎会の後で、二次会でカラオケに行った連中がいたでしょ。その中のある人が、帰りに部長とお局様がラブホテルの方から来たのを、見たらしいんです」
「フーン、まぁ、あり得るかもな」
「それで、実は先輩、僕はですね、ナンバー・ツーの鳥海さんに、彼女のことを相談したいって頼んで、軽く飲んだんです。その時は、もう絶望的でしたから、本題はお局様だったんです」
「ほう、オマエも、かなり策士だな」
「二人が出来てる噂を、さり気なく聞いたら、『アラ、あの部長が、30才の主任時代からそうみたいよ。もう、結婚してたのに』だって」
「エエッ、それってヤバイでしょ」
「どうも、知る人ぞ知るで、他の部課長さんは、何人か知ってるみたいですよ。だって、もうかれこれ20年もの間、愛人なんですから・・」
――そうか、それで未だに独身なのか。
  そう、バックがいるから、お局様なんだ。
  フーン、相思相愛なら、セクハラにならないのか。
  でもさ、部下としては、なんか複雑な心境だよな。
  オーイ、うちの会社、どうなってるんだ。風紀が乱れてるぞ。
 それから、しばらくの間、山田は仕事の話をしてから、武藤と別れた。
 
  山田は、9時に藤沢に着くと、千鶴子の顔を見たいとはやる気持ちを抑えて、勇躍して千鶴子の店に行った。
 いつもの通り、何気にドアを開けて入って行ったが、ふと、カウンターの近い場所にいる二人組が目に入った。
――アレッ、この女の人、もしかしてお局さん・・。
  確かそうだよな。あの長い髪・・。あのファッション・・。
  エッ、そうなら、この男は・・。
 山田は、お局の寿子が、男性の肩にしっとりと頭を傾けて、親しげに馴染んでいる光景を見てしまった。
 そんな信じられない様子を見ると、相手の男性の顔が見たくなった。
――エッ、もしかして、あの男、経理部長・・。
 山田は、確信が持てなかったが、職場で見る部長の、そんな後ろ姿に見えた。
 慌てて背を向けると、カウンターの中から見ていたママに手を挙げて、ドアを開けると出て行ってしまった。
 健太郎は、後ろ手でドアを閉めながら、もしかしてと思っていた場面に出っくわしていたのだ。
――ああ、ショックだな。
  やっぱり二人は出来てたんだ。
  そうか、多分、経理部長がこの店の常連客だったんだよ。
  だって、女性が新しい店なんて開拓しないもんな。
  ああ、ヤバイな。この店も来れなくなったよ。
  だって、ここで部長とは、バッタリ、会いたくはないからな。
 店を出て直ぐの壁に頭を傾けて、健太郎が感じた落胆は、気持の深い所でズッシリト重たかった。
――アア、千鶴子さんと、いい酒を飲めなかったよ。
  なんで、こんなに邪魔が入るんだ。
 健太郎には、仕事帰りに立ち寄る千鶴子とのお酒が、なによりもストレス発散の時間になっていたのだ。
 それからは、自分で開拓した昔の店で飲み直すしかなかった。
 
 その後、健太郎は、千鶴子に食事を一緒にしたいと懇願して、やっと実現した。
 ただし、日曜日のランチで、2時過ぎには用事があるからと、指定された日のわずかな時間しかなかった。
 すると、千鶴子からリクエストがあった。
 鉄板グリルの≪鎌倉山≫に行って、そのステーキが是非とも食べたいと言う。
 千鶴子は、以前に一度、食べた時にとっても美味しかったという、レディース・ランチを注文した。
 ただし、それは女性限定であったため、健太郎は仕方なく、普通のランチにした。
 ワインで乾杯してからも、健太郎は千鶴子を見惚れたままで、ほとんど言葉を発しなかった。
「僕はね、あなたを見ているだけで、幸せな気分になれるんです」
 もう千鶴子に惚れてしまった健太郎は、かつて経験したことがない程、気持が舞い上がってしまい、有頂天になっていた。
 二人の目の前にステーキが届いて、食べ始めてからも、健太郎は嬉しそうな顔で、ひたすら鶴子を見ながら食べていた。
 
「千鶴子さん、先日、お店で寿子さんが肩を寄せていた男性って、誰ですか」
「ああ、あの人かぁ・・。昔、クラブにいた時からの常連さんなの・・。たまに顔を出してくれるのよ」
 千鶴子は、他の客に関する余計なことは話さないようにしていたから、当たり障りのないことを言った。
 それからは、それを悟られないようにトボケると、カウンターの向こうで焼け具合を見ているシェフの手さばきを覗き込んでいた。
「もしかして、宮下さんでしょ」
「さぁて、どうでしょう」
――いやぁ、あれは絶対に宮下部長だよ。
  この人、案外と口が堅いんだな。
「そうか。宮下さんは、昔っから、高級クラブに行ってたのか」
「いえ、接待で来られてたの・・」
 千鶴子はそう言ってしまってから、あの男が宮下であると認めたことになってしまうと、フッと気づいた。
「銀行の支店長と一緒にでしょ」
 健太郎に追及されて、目を虚ろに泳がせながら、もう黙々とステーキを食べるしかなかった。
 
「アッ、そうだ。会社の寿子先輩に聞いたら、あなたにはサポーターがいるのでは、って、言ってましたけど」
「ああ、あの不動産屋の赤木さんですか」
 千鶴子は、なんのためらいもなく、さらりと応えた。
「ええ、私、あのお店を出す時、彼に借金はしましたよ。でも、必ず返すつもりなの・・。そう、ビジネスとして、ちゃんと契約書を作りましたから」
「それだけですか」
「ええ、そう。だから、あの人には、なにも負い目はないの・・」
「ああ、そのケジメのあるプライドが、素晴らしいなぁ」
――そうか。二人は出来ていなかったんだ。
  だったら、思い切って告白しよう。
 
 それから、健太郎は決意を固めると、勇気を振り絞って話し出した。
「千鶴子さん、今日は僕、指輪を持ってきてないんですけど、僕はあなたと結婚したい。お願いします」
「エッ、なにを言うの。ダメよ。私なんかとは・・」
「いえ、一途にそう思っている自分が、ここにいるんです。はい、僕は、こんな自分の思いに、正直に応えていきたいんです。だから、どうかお願いします」
 千鶴子は、必死に、切々と訴える健太郎を、驚きの目でじっと見つめていた。
 だが、その必至さは、赤ん坊のように全く純真だったし、嘘がなかった。
――ああ、こんな人と、10年前に会いたかったよ。
  これも、ついてない私の運命なのよね。
  そう、ダメな男を何人も見て来たよ。
  でも、仕事の出来るヤング・ライオンなんて、初めてだな。

  私、サラリーマンの世界は知らないけど、
  この男、仕事中の顔は、きっと違うんだろうな。
  ああ、アンタも、貧乏くじの女だよね。
「あなたね、もっと若い子が、周りにいっぱいいるでしょ。私はもう三十路の後半よ。あなたとは10才も違うの・・。こんな中年の女になんて、振り向いてはダメよ」
「でも、僕は、好きになっちゃったんです」
 健太郎は、切実な告白をしながら涙目になってしまい、下を向いたまましょんぼりとしていた。
 
「でもね。仮にあなたと結婚しても、私は、あのお店を続けたいの・・。そう、あれが、10年かけて、やっと築いたお城なのよ」
「あぁ・・、そうなのか」
「そうなの・・」
――私はね、お店を持つのが夢だったのよ。
  だから、二十歳でクラブに入って、必死に働いたわ。
  そして、地味な貧乏暮らしをして、貯金を溜めたの・・。
「だから判って・・、私ってね、夜の世界にしか飛べない蛾なのよ」
「いや、蝶々だよ」

「いいえ、私は天涯孤独の女。身寄りがないんです。だから、自分の保身しか考えないの・・」
「ええ、僕は、それでいいですよ。僕は一生、あなたを護りますから」
「あなたねぇ、判って・・。夜の世界でドブ汁を啜った者はね、もう平凡な主婦にはなれないの・・」
「いや、主婦でなくてもいいですよ」
 千鶴子は、どういっても聞き入れてくれない健太郎に、イライラしていたし、うんざりもしていた。
「本当のことを言えばね、私は、家族を作るとか、家庭を築くとか、それがなんなのかを知らないの・・。だから私なんて、お願いだから、放っておいて・・」
「いやぁ、放っとけないですよ」
 健太郎は、本気になってすねると、膨れっ面をして見せた。
「そんな駄々を言わないの。だって、あなたは育ちのいいお坊ちゃまでしょ。私の過去は泥まみれで、あなたとは隔世の違いがあるのよ」
 健太郎は、ここまで言ってもダメだと感じて、もう黙り込んだままステーキを頬ばるしかなかった。
 
 それから次の週、3連休の中日に、寿子は健太郎を誘った。
 去年も観覧したのだが、寿子が通う絵画教室の展示会があって、藤沢仲間として是非とも観てほしいと頼まれたのだ。
 先輩から頼まれると、それがまるで上司からの業務命令のようで、健太郎は断りたくても、従うしかなかった。
 だが、寿子の油絵は、花や風景や静物画を描いても、大胆な構図と筆遣いが個性的で、健太郎は内心、感心して見ていた。
 しかも,筆致はその特徴をよく捉えていて、その画風には見応えがあった。
 だから、絵が下手な健太郎には、賞賛と尊敬の念が湧いていた。
 特に、寿子が好んで描く江の島は、南側の切り立った茶色の崖と、深い緑の木々をどう描くかが、ポイントだという。
 寿子は、健太郎にそんな話をしていて、ふと江の島が見たくなった。
 夕暮れにはまだ時間があるのを見計らって、健太郎を誘った。
 
 だが、小田急線に乗っても、海岸に着くまでも、二人は俯いたままで、ほとんど会話がなかった。
 それぞれに、気持の中にわだかまっている問題を抱えていて、思い出してはどうしたものかと考え込んでいたのだ。
 それは、現在生きている自分、未来に生きようとする自分、その在り方を方向付ける重要なテーマだったのだ。
 それからも、寿子と健太郎は、片瀬西浜に伸びる遊歩道の縁石に座って、ただぼんやりと海を眺めていた。
 冬の弱い夕日が、もう箱根連山の向こうに落ちていた。
 晴れ渡った寒空は、さらに深い青みを増してきて、その中空には白い満月がかかっている。
 二人の目の前には、穏やかな海が広がっていたが、江の島の島影も、暮色の中で次第に暗い闇の中に沈もうとしていた。
 
 健太郎は、我慢できずに、小さな声で自分を語った。
「大藤さん、僕は千鶴子さんにプロポーズをしました」
「そうなのか・・。でも、その言い方だと、フラれたみたいね」
「ええ、年の違いもあるけど、育ちが違うって、言われました。あの人、子供の頃から遠い親戚の人に育てられてきて、天涯孤独だって・・。だから普通の主婦にはなれないって、言ってました」
「ウーン、そうかもね。あの子は、水商売が、もう体に染み込んでるのよ」
「はぁ・・、それって、どういうことですか」
「お客様には、笑顔で優しく接するけど、本当はね、根性が悪くて、ドケチで、自分本位かもよ」
「ああ、それらしいことは、本人も言ってました」
 寿子は、人生経験が長いだけに、女の正体をいっぱい見てきたから、笑顔に隠された女の裏側を語ってやった。
「でも、あの子はね、他人の世界で揉まれてきたし、理知的で頭の回転がいいから、自分の本性を自覚しているのよ。あの子は、そこが素晴らしいの・・」
「しかも、優しさと気配りは、最高ですよね」
「そう。それが、水商売の極意なのよ。でもまぁ、確かに、あなたの生い立ちとは全く違うからね。一緒に暮らすと感情がすれ違ったり、摩擦を起こして、結婚しても長続きしないかも・・」
「そうですかね」
「そう。きっと、あの子とは結婚しないのが正解なのよ」
 健太郎は、そう言われても自分の気持が整理できずに、まだ未練を引きずったままだった。
 ふと見上げると、さっきまで青く見えた大空はもう暗くなって、満月が青白く輝き出していた。
 
「でも、健太さん、私も彼にフラれたの・・」
 寿子が前を向いたまま、ポツリとこぼした。
「そうなの・・。考えた末に、彼と別れることにしたの・・」
「宮下部長と、ですか・・」
「アラ、私たちのこと知ってたの・・。あなたも、地獄耳ね」
 そう言われても、気分が沈んだ健太郎は、黙ったまま応えなかった。
――そうよね。あの人と付き合って、もう20年も経つのよね。
  でも、あの人、主任時代は輝いていたな。私、憧れてたのよね。
  それから、愛人をズルズルと引き摺ってきて、
  不倫もマンネリだったの・・。
  でも、学んだことも、身に着いたこともなかったな。
  だってあの人は、セックスを求めるだけだったから・・。
  そう、私は性欲の捌け口だったのよ。
  でも私だって、あのエクスタシーで、何もかも忘れられたけど・・。
  そう、忘れたい自分、見たくない毎日、そんな現実逃避が出来た。
  でも今、思えば、単に生きてきた。単に命を消耗してきた。
  そんな、20年だったかも・・。
 寿子は、宮下部長と付き合ってきた過去を、無意味だったと悔いていた。
「アア、ダメな自分が不甲斐なくて、哀しいしいのよね。哀れでさ」
 寿子は、息も絶え絶えに、掠れた低い声で呻いた。
「健太さん、チューをして・・」
「ダメですよ。そんなのは、なんの慰めにもならないんです」
 健太郎は、先日、酔っ払った寿子が、よろけた勢いで抱きついてきて、プチュッとしたのを思い出した。
 なんで、先輩がそうしたのかは判らなかったが、そんな戯言でする余興のキスはしたくなかった。
 
「でも私、これから一人で生きていけるのかな」
「先輩、大丈夫ですよ。だって今日見たあの油絵、先輩らしい生命力に満ち溢れていましたから・・」
「アッ、そうか。そう言ってくれると、嬉しいなぁ」
 寿子は、一瞬で笑顔を取り戻した。
「そう、私には絵を描くチャンスがまだ残っているのよね。それが生きる原動力になるかも・・」
「そうなんです」
 寿子は、単なる趣味で油絵を描いてきたが、そんなところに活路があるなんて、改めて知った。
「ええ、自分を表現して、自分を主張すること出来るって、素晴らしい事なんです」
「あなた、いいこと言ってくれますね」
 寿子は、俄然として生き生きと目を輝かせてき。
「ええ私、単なる慰めなんて、欲しくなかったのよ。でも、あなたは、私の生き甲斐を褒めてくれた。それが、なにより嬉しいの」
 寿子は、暗闇に光を見つけたような、そんな晴々とした気分になっていた。
 
 健太郎は、じっと暗い海を見つめていたが、ふと見えない水平線をたどって蒼天を見上げた。
「先輩、心に傷を負った者同士、ここで誓いませんか」
「えっ、なにを誓うのよ」
「絶対に生きながらえて、新しい自分をクリエイトする、って・・」
「ああ、健太さん、有難う。そうだよね」
「このいま見ている片瀬の海、それを見下ろしているのが、あの寂しげな月です。僕はあの月に誓います」
「あなたがそうなら、私は、片瀬の海をジッと見ている江の島に誓うわ。絶対にひと皮、剥けて、新しい自分をクリエイトするってね」
 寿子は、思わず手を差し出すと、健太郎に握手を求めた。
――ああ、私は、健太に救われたよ。
  絶望的だったこの1週間、
  フラれたダメージで、恥も外聞も亡くして、崩れ落ちそうだったのに・・。
  そうだよ。健太だって、心に傷を負っているのにさ。
  ああ、こんなに坊やに見えても、男はやっぱり逆境に強いんだね。
  健太の図太さを、改めて見せつけられたな。
  もう、感謝、感謝だよ。
 
                        ― おしまい ―
 
 
 





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