幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2015/01/11 14:06:00|雑記
日の出
1月10日の日の出
 

左は日の出前
 

右はその5分後

写真をクリックして拡大すると、中央に食事中のカイツブリ、
上空には西へ向かう数羽の鳥の姿が。







2015/01/10 13:46:18|雑記
明けました

2015年元旦、好天の年明けでしたが、
 
午後にはこんなふう

庭は事務長の足跡だらけになりました







2015/01/10 12:39:00|雑記
お年玉



眠り猫に小判ふうのタカラモノが届く

ヘンリー・ミラー・コレクションL 『わが生涯の書物』 (水声社)


訳者
本田康典+野平宗弘+菅原聖喜+萩埜亮+泉澤みゆき+森田起久子+佐藤亨+河野賢司





 ぼくがこれら大好きな作家について長々と書けない理由のひとつは、第一に、おびただしく引用するのを抑えきれないからである。第二に、彼らはあまりに深くぼくの組織に入り込んでいるので、ぼくがそれらについて話し始めるやいなや彼らの言葉を反復してしまうからである。巨匠たちを「盗用する」ことが恥ずかしいというのではなく、ぼく自身の声を取りもどせるかどうか心配なのである。奴隷的な読書によって、ぼくたちはあまりに多くの実在を、あまりに多くの声を持ちすぎ、自分の声で話すひとというのはきわめてまれである。最後まで分析していくと、「ぼくたちのもの」として誇るごくわずかな独自性とは真にぼくたちのものなのだろうか。ぼくたちが寄与する真の貢献、あるいは独自の貢献とは、いっさいがそこから派生する不可解な同一の源に由来する。ぼくたちは自分たちの理解――すなわち、ぼくたちの受容――以外、なにものも貢献できない。しかし、ぼくたちはみな、過去の型に基いて造られ、その型は終わりがないのだから、もしたまたまぼくたちが輝かしいひとびとのような音を出し、「オーム」以上のことはなにも言えない空っぽな存在のように同じ言葉を反響させたとしても、喜ぼうじゃないか。
(「第十二章 ピエール・レダンへの手紙」佐藤亨訳 より)







2015/01/05 14:21:34|猫牀六尺
猫床六尺 その30
(左)
野毛(横浜)、エルマー、50mm,F3.5で撮影

(右)
不忍池(上野)、キャノンL、50mm, F1.8(後期)で撮影

 







2015/01/04 14:11:07|猫牀六尺
猫床六尺 その29
(左)
雑司ケ谷、セルフィックス12-20(英国、エンサイン(ホートン)社、1952年頃製)で撮影

(中)
東京の空、ミランダ、センソレットで撮影

(右)
赤羽の公園、ミランダ、センソレットで撮影