くま
この話は、現在進行形です。
ワタシがこのチームに関心を持つようになり、ホームゲームはほぼ皆勤賞で観戦に行くようになったお話です。
初めてJリーグを見たのは、TV放送でした。Jリーグが創設され開幕した1993年に嫁さんと一緒にTVを見ていました。ワタシは独り者のときは、テレビでスポーツを見ることはありませんでした。というかTV自体あまり見ていなかったのです。時計代わりに点けている程度でした。嫁さんが野球ファンだったので(ファンといても時々テレビで見て、勝った、負けたと騒ぐ程度。ちなみに巨人ファン)嫁さんにつきあって時々テレビで野球中継を見る程度でした。このときもあまり画面を見ているわけではなく、嫁さんの一喜一憂をみて、面白いヤツだなーと人間ウォッチングを楽しんでいました。何しろ嫁さんは、ある程度、選手の個人応援歌まで知っていて、TV見ながらそれを歌うのです。それは、当時のワタシとしては考えられない行為であり、それを見るのが面白かったのです。しかし、当時のワタシにとっての野球は、“なんだか一部の選手がアスリートらしくないし(球技なのにデブがいる)、アメ公が商業的に作ったスポーツだし、なんかいまいち乗れないなー”てなこと考えていました。
1993年にJリーグが4番目のメジャープロスポーツ(相撲、野球、ゴルフの次)として初めて開催されました。このとき、日本はバブルに踊っていて(このときは世の中がバブルの崩壊に向かっていながらも、まだ浮かれていた時代でした。経済はじわじわと右肩下がり、暗い影を吹き払うようにJリーグバブルが騒がれ、ニュースではJリーグの経済効果がナンタラカンタラと騒いでおりました。)裏ではチケットが異様な高値で取引されたというニュースを聞いて、“なんだかなー浮かれすぎじゃないの”とか思っていました。バカサポの騒音公害でチアフォンの使用が禁止されたのもこのころでしたね。
運動音痴のワタシは基本スポーツが嫌い。見るのも何が面白いのかわからないというのが本音でした。が、世の中の流行りに乗って何度かJリーグをTVで鑑賞していました。
サッカーは中学や高校の授業で少々やったぐらいでしょうか。遠い過去に教わった時は年に2,3回サッカーをやったような気がします。授業でマラソンのとき早く帰った生徒はサッカーをする、てなことがありましたが、ワタシは運動音痴。マラソンは時間ぎりぎりに帰ってきてサッカーをした覚えがなかったように記憶しています。
そんなワタシがなぜにサッカー観戦にはまったのか?
サッカーをTVで見ていると、嫁さんがいろいろ聞いてきます。嫁さんは、野球はある程度ルールやチームを知っているようでしたが、サッカーは別。で、嫁さんは判らないことがあれば人に聞きます。(自分で調べるという選択肢はないそうです)で、判る範囲で説明しました。ただ、嫁さんに聞かれたことを正しく説明する事を良しとしているワタシにとっては、高校生時代を思い出し、判らないことは本を読み、少しずつサッカーを覚えていきました。
この当時は、世の中がJリーグバブルで、サッカーについての情報があふれていたので調べることはそんなに手間がかかりませんでした。(今のように発達したネットは無く、ネットで調べるような手段は、まだなかった時代です。)しかし、当時いろいろ調べ、またストーブリーグの時期になって、「期限付き移籍」という言葉を覚えました。他のプロスポ-ツではあまり聞いたことがありません。また、主要選手の移籍が他のプロスポーツというか、野球に比べて非常に多い点もなぜか、ワタシの琴線に触れたようです。
転機の1つ目。自分の住んでいる街にプロサッカーチームができました。
"平塚にプロスポーツクラブができた"まさに、おらが村のチームです。ちょうど1年間で、サッカー情報を頭に入れ、ある程度、実際にサッカーをTVで見ながらそのサッカーについて説明する事が出来るようになったときに、おらが村にチームができたのです。
1994年、始めて見たBellmare(TV観戦でした)。ベッチーニョとアウミールのドリブルを見てしまいました。中央を高速ドリブルで相手を抜きまくるベッチーニョ、サイドをウナギドリブルで駆け上がるアウミール(ワタシの印象だと、なぜか右サイド中央よりをヌルヌルと駆け上がっていくイメージが最も強いのです)、ワタシはこれにハマりました。なんて気持ちよさそうに走っているんだろう、と。
名塚、岩元や岩本、エジソン、田坂に名良橋、野口、反町、高田、若手の西山、それと伸さん、当時の愛すべき選手たちと、古前田監督とニカノールコーチ。DDIのちょっととぼけたコマーシャル。月刊Beや月刊ベルマーレ。
それからは、サッカーのTV中継を見る際には、必ずBellmareを探すようになりました。それは、時計代わりや人間ウォッチングの道具としてではなく、ただ、“おらが村のチーム”のサッカーを見るためにです。
1994年の田坂の眼窩骨骨折とベッチーニョの鼻骨陥没骨折、この知らせを聞きいたとき、顔面蒼白になりました。1995年にはヒデの加入。ワタシはガラにもなく狂喜乱舞してしまいました。チームはどんどん面白くなって行ったのです。1996-1997年のストーブリーグでベッチーニョが移籍。これはすごいショックをうけました。ワタシはこの時、ベットまだできると信じていたのです。
1997年にはロペスやミョンボが加入。国を代表する選手が何人もおりました。この時期がBellmare平塚の絶頂期だったように思います。
1994年から1996年にかけては、完全にバブルがはじけて、どんどん不景気になっていった時代です。このためなのか、放映権料が高いのか、だんだんとBellmareの試合を放送してくれるTVチャネルがなくなって行きました。
すでに、この時期には、Bellmareの試合をTVで放送していれば必ず見るようになっていましたが、Bellmareの試合放送がどんどん減っていました。もちろんBellmareだけではなく、サッカー放送自体がなくなってきていました。その当時はBS放送で一節につき2試合程度、他のチャネルで良くて2試合、普通は無しか1試合程度だったと思います。
そこでワタシは、1996年にBellmareの試合放送が見たいがために、地元のケーブルテレビに加入することにしました。この時期には、Bellmareの全試合をケーブルテレビが放送していたのです。
で、2つ目の転機です。ケーブルテレビ加入契約のおまけに、平塚競技場で開催されるBellmareの試合の招待券を2枚もらいました。
ワタシは、人混みが大嫌い。招待券をもらいましたが、その時はまるで行く気がありませんでした。でも、なぜか招待券を受け取ったのです。たぶん、“誰かにあげてもいいか”などと考えていたのだと思います。ところが、招待券をもらった時、そばに嫁さんがいたのです。嫁さんは遊びに行くのが大好き。遊びに行くのなら1人でもひょこひょこと行ってしまいます。ただし、遊びだけ。
招待券が2枚ある、と知った嫁さんがワタシにジワリジワリと圧力をかけてきます。“招待券、持ってるよね~、その日は予定が何にもないね~...で、その日は何時に出発するのかな?”確かに、招待券の日付には予定もなく、単純にワタシの「人混みが大嫌い」以外は何も弊害がありません。ついに嫁さんの圧力に負け“まぁ、たまには嫁さん孝行でもしておくか”と観戦に行くことになったのです。
カードは、京都パーブルサンガ。昼間の試合で、席はホーム側バックスタンド中央よりだったと記憶しています。このとき、お客さんがあまり入っていなくて、人混みが大嫌いなワタシでも、ゆったり・のんびりと試合を見ることができそうでした。
しかしこのとき、ワタシは試合前から競技場の雰囲気にのまれていました。試合前“なんかワクワクする!”これがその時の印象でした。試合中、必死に試合に見入っていました。声を出すでもなく、手を叩くでもなく、ただ見入っていました。このときの印象は“テレビで見るサッカーとはまるで別物だ!”でした。やはり「視界の広さ」なのでしょうか、目の前で展開しているサッカーが大まかに予想できるのです。いや、予想ではなく選手の意図が分かると言った方が当たっているでしょうか。テレビでは、競技場を端から端まで映すことは余りしません。当時のテレビ中継は、映す方も試行錯誤の時代だったのでしょう、選手の大写しが長く続いたり、ゴールシーンを試合の続きが始まっているのに何度も映していたり、今から考えるととんでもない映し方でした。このため、テレビでは「選手が連動して動く」が良く分からなかったのです。
ところが、競技場で、生で見るサッカーはそれが見えるのです。
Bellmareは“湘南の暴れん坊”と呼ばれていたイケイケサッカーでした。攻撃は、ほんとにどっから湧いて出てくるのかと思うような攻めが、たまに(1994年ごろのイケイケはこの当時あまりなかったような。時々、その片鱗が見える程度だった。)見ることができました。初めて自分から行った(?)スポーツ観戦は、驚きと爽快感、快感が入り混じったものだったと記憶しています。この後1996年~1999年ごろ、ワタシは時々(年5,6回程度)、サッカー観戦のために平塚のスタジアムに足を運ぶようになっていました(もちろん遊び好きの嫁さんが常に同行していました)。この時期は、本当に、いろんな座席(角度)から見ていました。5、6ゲート以外で、上の方、下の方、中ほど、端やら中央寄りやら…天皇杯のときはメイン中央などなど。で、結果的に縦は中央から上、横はできるだけ中央寄りの位置で見るようになっていきました。
1999年、3つ目の転機がやってきました。メインスポンサーのフジタが撤退し、Bellmareの消滅危機が囁かれたのです。
前年の1998年には横浜フリューゲルスがメインスポンサーの撤退により消滅してしまいました。Bellmareも同じ道を歩んで消滅してしまうのか。主力選手はすでに1999年シーズン前に他チームへ移籍(まぁ、給料払えないので、できるだけ他チームに移籍しやすい-移籍金の発生しない-ようにしたらしいと、後に何かの文章を読んだ覚えがあります。)仕方がないとはいえ、多くの主力選手の移籍は、酷く悲しい思いをした事を覚えています。
1999年シーズンは、ダントツのビリでJ2へ降格しました。
もうこのときには、ワタシにとってBellmareは“おらが村、唯一のプロチーム”となっていました。(でも、この当時には、生活のほんの一部であり、優先度は結構低かったと思います。)
1999年シーズン終了後、本当の意味での3つ目の転機、Bellmareは消滅しませんでした。
ワタシは、消滅危機がささやかれ何とか次年の消滅が回避されたことを知った時、決めたのです。微々たることかもしれないけれど、経済的、肉体的に許す限り、シーズンチケットを買い続けよう。そして、観戦したらグッズを買おう、と。このときは、前に市役所に勤めていた、死んだ叔父さんの言葉を思い出していたのです。「つぶすのは簡単だけど、作るのは大変なんだよ。」と。
1999年シーズン終了後、すぐに2000年のシーズンチケットを嫁さんの分を含めて2セット申込みました。
これが、ホーム毎試合、参戦することとなるきっかけです。
その後 「暗黒の時代」へ続く |