かっし〜’s カフェ

日々是巡礼。(ピリピ3:12)
 
2010/04/14 21:31:43|分かち合い
子供という人間 その2
仕事場まで、自転車で40分の道のりを走っている。
帰り際には、今日一日あったことが走馬灯のように甦り、反省をすることたびたびである。

子供たちを外遊びに連れて行くとき、まとまって移動することになっている。 学校で遊んだ後、帰る為に子供達を集めていた。いつも、一年生は一年生、三年生は三年生と、ふたり一組になって移動している。上級生の子達に、「一年生と組になって、一緒に歩いてくれると、先生うれしいんだけどな。」と何気なしに言った。3年生のMちゃんと目が合った。Mちゃんは少しはずかしそうに微笑みながら、「私、一年生より小さいもん。」と、背を縮めてそう言った。

今日も一年生同士、三年生同士で帰ることになったが、Mちゃんが他の子達に、「危ないよ。もっと内側歩こうよ。」と言ってくれた。
うれしかった。僕の言った事を、一生懸命自分なりにしてくれている、そのことがうれしかった。ただ、「ありがとう、先生助かったよ。うれしかった。」と、Mちゃんに言うのを忘れてしまっていた・・・。

ごめんね、Mちゃん。今度会ったときに、忘れずに「ありがとう」って言うからね。そう誓いながらも、忘れているであろう、チキンヘッドの僕なのである。orz







2010/04/01 22:06:47|分かち合い
子供という人間
今日から新学期、私も新しい仕事に就いた。学童保育の臨時講師である。今日は仕事場でうれしかった事を、書きたいと思う。

私の尊敬してやまない先生に、愛隣チャペルキリスト教会牧師、内越言平先生が居られる。彼の座右の銘(?)は、「子供という子供はいない、子供という人間がいる。」である。今日、そのことをまざまざと思い知らされたわけである。

子供たちと一緒に近くの公園に遊びに行った時の事である。男の子は、僕も入り、ドッジボールをして遊ぶ事になった。そんな中、1年生のK君が泣きながら僕のところへ来て、「ボールを投げれなくて面白くない」といった。僕は、「先生が言うのは簡単だけれど、自分で自分の意見を言ってごらん」と励ました。その子はいわれるがまま、自分の意見を言いに行った。そのこと自体も褒めることだろう。でも、ルールで自分の取ったボール以外投げれない事になっている。どうするのかと思ってみていると、他の子が「代わり番こに投げればいいだろ。」と代替え案を出してきた。子どもたちの間で、それが承認され、K君は、楽しそうにドッジボールを続けた。

 何気ない事かもしれない。でも、大人たちの世界を見て欲しい。沖縄の事にしても、代替え案もでずに紛糾している。そんな中、子供たちは、自分たちで考え、自分たちのルールを作ったのだ。
とってもうれしかった。僕が、「こうしなさい。」と言ったのではない。何より、子供たちが自発的に問題を解決していこうとしている事が、うれしかった。子供たちの、こんないいところを、友達思いのいいところを、沢山の素敵な個性を、沢山の良いところを日々教えられ、伸ばして行きたいと心に誓った。







2010/03/05 22:26:06|メッセージ
私たちのうちの絶望
ヨハネの福音書5章1節から9節まで。

その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

 イエス様がなされたヨハネの福音書に記されている3つ目の奇跡です。今日は、38年間病気にかかっていた人とイエス様との会話に目を留めたいと思います。
 38年間病気にかかっていた彼は、ベテスダの池で、来る日も来る日も何をしていたのでしょうか。38年間、ただそこに伏せていたのでしょうか。いや、最初来たときは、治りたいという希望に燃えていたと思います。だからこそ、ひとりでもこの池にやってきたのです。でも、38年という月日が彼を変えてしまいました。最初のうちは、這ってでも池に飛び込もうと全力を尽くしていた事でしょう。でも、他の人が先に池に入ってしまう。何度も同じことを繰り返していくうちに、彼の中にあきらめ、絶望が忍び込んできました。「もう無理だ、何度やってもだめだった。これからも駄目に違いない。」と。

 彼の心中は察して余りあるものでしょう。38年、同じことの繰り返しです。38年という月日は、彼から希望を奪い去り、目の生気も抜けていたことと思います。しかし、その様子をイエス様はご覧になりました。そして声をかけます。6節「よくなりたいか?」。 当たり前じゃないですかイエス様、病気になってよくなりたくないものなんていませんよ。というあなた。38年という月日を考えてください。38年もの長い間、不治の病が必ず治ると希望を持ち続けることがあなたに出来るでしょうか。この病人の心の中には、その希望の欠片もありませんでした。ですから、7節のような返事をするしかなかったのです。いや、「治りたい」という彼なりのアピールであったのかもしれません。 そしてイエス様は、彼の絶望の原因である病そのものを癒されました。

 私たちはどうでしょうか。希望を失ってしまい、絶望のどん底に落ち入る事は、一度や二度、少なからず人生の旅路には、つきものなのではないでしょうか。絶望のふちに立たされ、ただ伏していた病人を癒されたイエス様です。病人の言葉などお構い無しに、病人のよくなりたいと願う心の底の欲求を知り、治してくださったイエス様です。そのイエス様が、私たちの絶望のふちに来てくださり、私たちの絶望を希望へと、神への讃美へと変えてくださる力を持っておられるのです。







2010/02/21 23:28:33|その他
Jhon Lennon
誰でも名前だけは聞いたことがあるだろう。
ビートルズのリーダーにして、ギタリスト兼ボーカルのジョン・レノンである。僕の好きなsinger-songwriterのうちの一人である。彼の平和活動はあまりにも有名である。

なぜ、ジョン・レノンなのか。それは、こんな歌を彼が歌っているからである。

-Oh My Love-
Oh my love for the first time in my life
My eyes are wide open
Oh my love for the first time in my life
My eyes can see
I see the wind, oh I see the trees
Everything is clear in my heart
I see the clouds, oh I see the sky
Everything is clear in our world
Oh my love for the first time in my life
My mind is wide open
Oh my love for the first time in my life
My mind can feel
I feel sorrow, oh I feel dreams
Everything is clear in my heart
I fell life, oh I feel love
Everything in clear in our world

-訳-
ぼくの恋人 生まれて初めて
ぼくの目は開かれた
わたしの恋人 生まれて初めて
わたしの目は見える
風が見える 木が見える
ぼくの心にはすべてがはっきりとしてきた
雲が見える 空が見える
ふたりの世界にはすべてがはっきりとしてきた

ぼくの恋人 生まれて初めて
ぼくの心は開かれた
わたしの恋人 生まれて初めて
わたしの心は感じられる
悲しみが感じられ 夢が感じられる
ぼくの心にはすべてがはっきりとしてきた
人生が感じられ 愛が感じられる
ふたりの世界では全てが明瞭だ

オノ・ヨーコとの出会いを歌った歌ではあるが、クリスチャンにも当てはまると私は思う。
キリストと出会った事によって、霊の目が開かれ、本当の意味で心が開かれる。そのとき、この世の全てが、創造主の栄光を讃美しているのを知るのである。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。第Uコリント5:17







2010/02/04 22:03:09|その他
父を天国へ送って。
 父が死んで、満一年が経った。
この一年、あっという間の一年だった。
 父の死の間際に、「どうせ逝くなら、同じ天国へいこうよ。」との私の言葉に、父が大きく頷いてくれたのが昨日のことのように感じられる。父は確かに、天国へと旅立ったのだ。その確信は、今も変わらず私の心の中にある。あれほど、頑なに福音を拒み続けていた父が救われたのである。

 「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。」と聖書に書かれている。その「あなたの家族」を私は、長年「自分が夫となってからの家庭」と考え続け、信じ続けてきた。しかし、父が天国へ行った事によって、私の考えはもろくも砕け散ったのだ。「あなたの家族」とは、「私の生まれた家庭」なのだ。今はそう信じ、そう確信している。なかなか家族が救われない現状ではあるが、御言葉を握っていこうと思っている。

 今、父を天国へ送った者として思っている事は、クリスチャンでない人々も、「天国」と言う言葉を使うということだ。

 私たちクリスチャンが、「天国」という言葉を使う時、それは、イエス・キリストの支配されている王国を指している。または、イエスをキリストと信じた者達が、死後に行く所である。
 クリスチャンでない人々の考えている天国とは、どんなところなのだろうか。死んだ人のいく死後の国なのだろうか。誰でもいけるところ(イエスをキリストと信じなくても)なのだろうか。そういう所では、この世の地獄と同じような場所にならないのだろうかと、私は思うのである。