2020年の2月ころから夏まで集中的に執筆された本小説には、随所にパンデミックの雰囲気が漂っている。
「コロナ」という言葉は本文にはたった一度登場するだけであるが、コロナウイルスの形状を彷彿とさせる「糸の太陽たち」や糸かけ曼荼羅も含めて、遠い将来、この小説がコロナ禍の中で生まれた先駆的な地位を占める日がやって来るかも知れない。
さほど長くない作品であるが、翻訳は思いのほか難航した。訳者の非力によるところが多いが、ツェランの詩を縦横無尽に織り込んだ文章は難解であった。幸い齋藤由美子さん(帝京大学専任講師)が大きな力になってくれた。齋藤さんは多和田さんも博士号を取得したジークリット・ヴァイゲルの下で「多和田葉子と翻訳」というテーマで博士号を取得し、滞独経験も長い。彼女が訳文を原文と突き合わせて確認するというやっかいな作業を引き受けてくれた。
本書が刊行できるきっかけを作ってくださった、ツェランの愛読者でもある心優しい文藝春秋の大川繁樹さん、担当編集者としてあらゆる面で相談に乗り、献身的な援助と細部に至るまで念入りのチェックをして頂いた田中光子さんにも心から御礼申し上げる。とりわけオペラに精通した田中さんの助言のおかげで、訳注がいっそう充実することになった。最後に忘れてはならないのが、訳者からの細かな質問にも丁寧に答えてくださり、素晴らしい本文の後に蛇足ともいえる「訳者によるエピローグ」の挿入を認めてくださった作者の多和田葉子さん。すべての方々に心からお礼を申し上げたい。
多和田葉子『パウル・ツェランと中国の天使』
関口裕昭訳(2023年1月10日 文芸春秋刊)
あとがきより