かっし〜’s カフェ

日々是巡礼。(ピリピ3:12)
 
2012/03/16 16:08:41|その他
春の匂い。
うちの庭に、今年も春がやってきました。
蕗の花です。







2010/10/03 19:58:32|メッセージ
赦し
今、赦しという事について考えている。英語では「forgive」である。
語呂合わせはあまり好きではないが、「forgive」の「for」を「four(四つ)」と考えてみたい。私たちの得る、4つのものとは何なのだろうか。
 
@受容。受け入れてもらうということ。安心感を得る、平安を得ると言い換えてもいいだろう。一言で言うなら、「今のあなたでいいよ。」ということである。
 
A解放。これはもちろん、罪からの解放である。私たちは皆、罪の奴隷であったことを忘れてはならない。それと同時に、罪とはもう関係がなくなったということ、解放されたということを再確認したい。
 
B赦し。 無罪判決を得るということ。罪の奴隷であった私たちは、神の前に有罪判決を受けざるを得なかった。しかし、赦されることにより、無罪判決を受け取ったのである。
 
C愛。 今までの3つをひっくるめるとこの一言になるのではないだろうか。一言では語れないほどの「愛」をまさしく私たちは受け取ったのである。− ヨハネによる福音書3章16節 −
 
P.S このことについてはいまだ試行錯誤の最中。よって、皆さんの意見も聞きたいと思います。コメントに書き込んでくださるとうれしいなぁ〜。







2010/08/29 17:25:42|その他
夏の思い出
思い出は、重いで〜 などという親父ギャグは無視してww

今日、久しぶりに海に行ってきました。
僕の住んでいる町には、太平洋岸自転車道があります。

BBQをしている人たちを、「またごみ持って帰らねぇんだろ!」などと横目に見つつ、自転車道へ。

途中、海岸へ下り、暫し潮騒に耳を傾ける。う〜ん、おちつく。
その後、浜を散策し、お気に入りを持ち帰ってきました。

それにしても、相変わらずごみが多いこと多いこと。(T▽T
ペットボトルや、カップヌ○ドルなどその他もろもろ。
海を愛する人って少ないのでしょうね。

閑話休題。

今日、国府教会初めての伝道礼拝でした。開かれた聖書箇所は、ヨハネ14:6。
・私たちが目指すゴールは、父の御許であること。
・自分勝手で、的外れな生き方をしている私たちは、父なる神の御許へいけないこと。
・私たちを愛するがゆえに、御子キリストが人となって十字架に架りよみがえってくださったこと。
が、語られました。

故郷伝道に召されているものとして、もう一度救われている喜びを感謝した礼拝でした。







2010/08/09 22:20:55|その他
娘と息子とw
今日久しぶりに、娘、息子、妹と私の4人で遊んだ。
息子も娘もまた一段と、大人びていた。ふぅ。いつも成長を見続けていない分、どれだけ成長したのかが手に取るように分かる。まぁ、それが唯一のいい点なのだがw。
帰りの電車で娘が、インマヌエル教団の林間聖会について、話してくれた。
今回は、参加者としてではなく、奉仕者として参加したそうだ。僕の知らないうちに、イエス様の弟子となっていく娘。寂しさと同時に嬉しさがこみ上げて、複雑な気分になった。娘も案外、まんざらでもなかったみたいだ。

イエス様は、君の奉仕をとっても喜んでくれているよ。








2010/07/25 4:32:24|その他
社会の偏見。
昨日、ベストハウス123で、先天的に右腕のない子供のことが特集されていた。障害者という言葉を皆さんもご存知のことだろう。障害者とは、身体的または精神的な障害を持っている人々のことだ。この私も、精神障害2級を持っている。私たち精神障害者は、外見は通常の人々とほとんど変わりない。ただ、日常生活を送る上で、支障となる精神的な病を発症しているだけだ。
 今、病状も落ち着き、主治医の理解もあって、職探しをしている。だが、精神障害者と聞くだけで、NOという企業がまだ多い。甘えではないが目に見える分、身体的障害のほうが理解があるように思える。いまだに社会の偏見と戦いつつ、理解を訴え続けるしかないのである。小泉内閣が推し進めた障害者自立支援法は、一定の評価が出来ると思う。世の中に、精神障害を持っている人々がいることを、少なからずも認知させることに一役買った、という点においてはである。しかし現実問題として、「精神障害者です。」というと、面接はおろか電話口で、はいさよならの世界である。何が障害者の自立だろうか。私たち障害者は一生懸命、それこそ健常者(このいいかたはすきではないが)、以上に努力をしてきているのだ。病と闘いつつ、社会活動へと参加しようとしている。いろいろな支援策があることにはある。でも、いざというときに今一歩なのである。精神障害者の社会復帰への道は、今始まったといっても過言ではないと思う。