僕の恩師であるF先生は、「いつも問題意識を持っていなさい。」と言っていた。
韓国からの帰宅報告でもしたが、日本の行ってきた歴史的事実を折り曲げることも、消すことも出来ない。それが、去年からの問題意識だった。
今でも、その問題意識が消えたわけではないが、最近、自分自身でどうなのだろうか? と考えることが多くなった問題が、もう一つある。
それは、讃美についてだ。インマヌエルの使っている「インマヌエル讃美歌」、福音的な諸教会で使われている「聖歌」と「讃美歌」。どれもすばらしい讃美歌集ではあるが、果たして、@本当の意味において、主を讃美しているのか?A言葉の意味を本当に理解して讃美しているのだろうか。
本当の意味において、主を讃美するとは、人格をお持ちの主なる神を目の前にして、讃えることである。 ダビデが、詩篇16:8で告白しているように、自分の前に主を置くことである。そこで、主との霊的なリレーションシップがもたれるのだ。主を自分の前に置かない讃美は、心を見られる主にとって、讃美ではないのである。
言葉の意味を本当に理解するには、歌詞版があると助けになるだろう。幸いに、インマヌエル讃美歌では、「歌詞版」が発刊されている。たまには、歌詞版で歌詞の意味を咀嚼しながら、讃美してみるのも、恵みだと思う。
例えば、讃美歌526番の2節では、「主は十字架をまず負いて、愛のみ手を伸べたもう。」と、歌われている。インマヌエル讃美歌では、「ひらがな」で書かれているため、 意味がわかりにくい。「おいて」という一言が、「置いて」なのか、「背負って」なのかわかりにくくなっている。おそらく、例を挙げたら枚挙に暇が無いのではないだろうか。 インマヌエル讃美歌の歌詞版を持っている兄弟姉妹方、折角の機会、調べてみたらいかがだろう。
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