詩集『豊穣の女神の息子』の詩編を読む | 少年詩2021
詩集『豊穣の女神の息子』の詩編を読む
詩集『豊穣の女神の息子』の詩編を読む
佐藤重男
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詩集『豊穣の女神の息子』(山本純子 花神社 2000.3)を読みました。
詩編二七編が収められています。
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今回は、知的障害を持つこどもたちが登場する作品二つを見て行くことにしようと思います
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詩集『豊穣の女神の息子たち』に収められている詩編の中、作品「星の王子さまの視線」、そして作品「咳がとまらない女王の話」などには、知的障害を持つこどもたちが登場します。
その他にも、作品「豊穣の女神の息子」「ヨシマスさん」などなど、〝ちょっと変わったこどもたち〟が何人も登場します。
そんなふうに考えると、表紙に描かれている、麦の穂らしきものを手に、犬を共に連れて裸足で駆け回っているのは、そんなこどもの一人でもあるのかもしれません。
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作品「星の王子さまの視線」
詩集の冒頭、わたしたちは、作品「星の王子さまの視線」に出くわします。
〝出くわす〟とは、あまり褒められた言葉遣いではありませんが、なにしろ、闇夜の十字路で、思いもよらなかったものとばったり出会ってしまった、としかいいようがありません。
ミュージカルの合宿で泊まっていた「青年の城」での出来事だというのですが、なんと、
【玄関ホールの明るい電灯の下/あなたは素っ裸で立っていた】(【】内は作品からの引用、以下同じ)というではありませんか。
もちろん、読み進めていくと、その事情が判明してくるのですが、【胸の膨らみかけた女の子】が素っ裸でいるというのですから、尋常なできごとではありません。
「私」(作品の書き手、以下同じ)はなんとかそんな状況を解決しようとして、女の子が胸に抱えていたパジャマを着るよう説得するのですが、彼女は、頑として失くしたパンツを履かなければその上には何も着ることができない、と言い募ります。パンツを履いて、次にパジャマを着るのだ、と。
もうすぐ、男の子たちがサッカーの練習から戻ってくる時間。焦る「私」の頭には、サン・テグジュペリの『星の王子さま』の一シーンが浮かび、そして、目の前には、パジャマを抱えた裸の女の子が立っているのです。
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ここで作品は閉じられますが、わたしたち読者は、さらに想像を逞しくしなければならないのではないでしょうか。
わたしは、いくつかの「後日談」をこしらえてみましたが、まずは、頑なにパンツが先、と言い張る女の子を前にした「私」が、「星の王子さま」のワン・シーンである、砂漠でパイロットが出会ったふしぎな王子さまのことを頭に浮かべた、というところに注目しました。
それには、合宿で練習していたのが、ミュージカル「星の王子さま」、という伏線があるわけですが、わたしは、パイロットが【ふしぎな】王子さまに出会った、ことと結びつけた、そのことに共感を覚えます。
その女の子が知的障害を持っていることに【はじめて気づ】いた「私」は、力づくでパジャマを着せて異性の目から裸であることを隠した、というふうに思いがちですが、いいえ、「私」は、彼女の障害の特性に合った解決方法を見出したのに違いない、と思うのです。
だからこそ、作品のタイトルを「ミュージカル星の王子さま」などとはせずに、「星の王子さまの視線」としたのではないでしょうか。
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作品「咳がとまらない女王の話」
『オズの魔法使い』のリハーサル中、女王役の「私」が、風邪で咳がとまらないでいると、「花の精の役」の十数人の知的障害を持つこどもたちが、列を作って順番に「私」の背中を叩いてくれる、というのです。
場面は、【ドロシーたちの一行を/オズの国へ行かすまいと/うっとり眠らせてしまう】ところだというのに、子どもたちのおかげで「私」は、【うっとり眠くなってしまった】のでした。
本文中、こどもたち一人一人の手の動きなどが描写されていて、読み手にもその「癒され感」が伝わってきます。
そんななか、わたしがもっとも注目したのは、手の動きに加えて【やわらかい息】というひとことを書き足してくれたことです。
言うまでもなく、手触り、息遣いは、どちらも、いわゆる「皮膚感覚」に他なりません。幼児が抱っこを好むのも、「皮膚感覚」へのこだわりや、そこから生じる精神的な安定を実感するといったものがあるのではないでしょうか。
そして、息遣いは、皮膚感覚のなかで、より深い関係性を感じさせる、そう思うのです。
ある、発達障害のこどもたちの支援に長いこと関わってきた人が、その著書の中で「自閉症の本質は感覚過敏にあるのでは」という問題提起をしています。先ほどの、「皮膚感覚」という、わたしたちの問題関心と重なるものがあるのではないでしょうか。
閑話休題。
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こうして、わたしたちは、障害者と健常者をつなぐものとして、「視線」や「息遣い」がある、ということを気づかされます。
さらには、わたしは、知的障害を持つこどもたちが登場する、この二つの作品に通底するものとして、〝やわらかなユーモア〟を感じます。(作品「咳がとまらない女王の話」の「やわらかい息」からヒントをもらいました…)
とりわけ障害を持つこどもたちは「弱者」であることを強いられ、したがって、間違った正義感や同情も含めた「社会からの阻害・排除」に取り囲まれています。
ですから、多くの障害を持つ人々は、よりがんばらなければならない、という状況に追い込まれがちです。
でも、がんばってばかりいては、いつか壊れてしまいます。
しかめっ面をして肩で風を切って、向かい風に立ち向かうだけでいいのでしょうか。
時には、みんながそうしているように、大きな口を開けて笑ったりすることも必要ですし、もちろん、クスリ、と笑うのも、おススメです。
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作品「星の王子さまの視線」に登場する女の子の頑固さは、そのこどもの障害の特性であるとともに、生き抜くための「処方箋」なのかもしれません。
女の子の「視線」と、その子に向けられる大人の「私」の視線が交錯し合いますが、何よりも、「私」の女の子に向けられる視線には、「やわらかなユーモア」が内包されていることが強く感じられるのです。
作品「咳がとまらない女王の話」に登場する「花の精の役」の障害を持つこどもたちの手の感触と息遣い、そこにもまた、「やわらかなユーモア」が感じられます。
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この二つの作品を未読の方は、ぜひ、手に取ってみてください。
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ここでは論考の対象とはしないつもりでいましたが、作品「豊穣の女神の息子」は、まあ、ユーモアの域を超えて、ドキドキ・ハラハラさせられました。びっくり、です。
同級生でしょうか、友だちから、お前の母親は便所に行った後、手を洗っているか、とからかわれた、うどん屋の息子が、
【歯ぁの間から きしめん出して/耳からは うどん出して/尻から そば出して売っとおんや/そこがうまさの秘訣やんけ】
と開き直るのです。そんなうどん屋の息子を、しっかりと褒めた後、『古事記』の、
【鼻口また尻より/くさぐさの味 物を取り出でて…】
という「大気津比姫の神」が登場…。
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一読、「下ネタ」に陥りそうな危うさを感じさせながらも、にもかかわらず、作品「豊穣の女神の息子」の「うどん屋の息子」に注がれるその視線にも、「やわらかなユーモア」が感じられて仕方ありません。
書き手の、そんなこどもたちとの出会いがうれしくてたまらない、その気持ちが伝わってきます。
こき下ろしたり、逆に上げへつらう、それとは次元が違っていて、「ユーモア」を使いこなすのが下手なわたしたちに、「ユーモア」のなんたるかを示してくれた、そう思います。
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【八木さん、/という化学の先生がいて/この春新しく赴任してきた先生の/大八木さん、という名字にどうも引け目を感じたらしく/「僕、いつも白衣を着てるから/これからは しろやぎさんと呼んでください。」/と宣言したらしい】
という、作品「学校要覧」、そして、作品「ヨシマスさん」なども、思わず、口辺をほころばせずにはいられない作品です。
どれもこれも、「現場に取材する」、その強さに裏打ちされている、そのことがよく分かります。
ぜひ、ぜひ、詩集『豊穣の女神の息子』(山本純子 花神社 2000.3)を手に取ってみてください。
新しい世界との出会いが待っていること、請け合います。
― この項 完 ―
いつものことですが、作品等の引用に当たっては、誤字・脱字等のないよう努めましたが、何かお気づきの点がありましたら、ぜひ、お知らせください。
2025.4.30
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