昨夜、私がうつらうつらと寝かかった時のことである。
PC前にねばっていた白熊が
「ねえ、寝ちゃった?寝たふり?」
「はぎゃぁ〜?」
「ぐらんぱさん、おもしろいよ〜♪」
と、こちらのブログのなかで私が結構気に入っているサイト
「昔は、星の王子さま!」を、
延々且つ早口で御朗読くださったのだ。
内容は私も多用してしまう
「・・・。」(点々丸)おもしろい、とは思ったのだがどうも迫力に欠ける
グランパさんの時代小説調の歯切れのよさがない
明けて、今朝
「そうそう、グランパさんね」と読み返してみる
おもしろいじゃない!!怖いものである。
全く同じ文章も、入り方一つで
ウケ無かったり、ややウケだったり、バカウケだったりするのだ。
考えてみれば、白熊は「時代劇」見もしなきゃ、読みもしない
文面を見ている白熊は、「おもしろいよ」と私に
よんどく(読んどく)だけ
しかしね、
小説の楽しみについては、前出のページでも言われているが
頭の中で、ちゃんと映像化してるんですよ。
聞いた側が、その映像を具象化できるように読むのは
ろうどく(朗読)
そこまでは行かずとも、
おんどく(音読)になって欲しかったのだが
高望みというものだろうか?
子ども達が小さい頃、絵本を読んであげた。
さて、あの時の私はどれだったのだろうか?
自分では「音読」程度にはなっているものと思っていたが。
願ったものは
絵本の「絵」が音(読まれた文章)で心の中で動くこと。そこまで、できていたのだろうか?
できていたにせよ、ダメだったにせよ
子ども達は、本を読むことが好きなほうである。
これは、結果オーライというものだ。
文章を音で表現させる訓練が今の「国語」にどれくらいあるのか良くわからないが、
音で表現しなければ「韻を踏む」意味はわからないしかして、ぐらんぱさん記述の「点々丸」あたり、
読み手としては
「音の余韻」の表現と思っていたのだが
音のイメージが無ければ、確かに文章のいい加減さになるのかもしれない
但し、書き手の私としては
もちろん、語彙の足りなさを「一時が万事」助けてくれる
お助けキットに使っている。
書き手の私は、いい加減なのださて、さて
秋も深まり、夜長の過ごし方
たまには、家族で
「詩の朗読会」など、いかがだろうか。
暖を取りつつ、お茶をのみつつ、文章の音に聞き入る。
あ、我家はこの手の楽しみは白熊がダメだったんだっけ。
・・・。(点々丸)