大磯町郷土資料館ノート Oiso Municipal Museum

 
CATEGORY:大磯の偉人と文学

2011/07/07 10:34:53|大磯の偉人と文学
吉田茂関連資料公開 ~7月8日(金)
 
(財)吉田茂国際基金の解散に伴い、
 
大磯町に寄贈された吉田茂関連資料の一部を
 
7月8日(金)まで当館企画展示室にて公開しています。
 
 
蒋介石から吉田茂へ誕生祝いとして贈られ、
 
かつては応接間に掛けられていた書をはじめ、
 
旧吉田邸庭園風景が描かれた和食器、書簡や写真など、
 
貴重な資料が展示されています。
 
ぜひご来館下さい。






2009/05/09 11:05:57|大磯の偉人と文学
伊藤博文 没後100周年記念特集④「伊藤博文と大磯駅」
           明治末~大正初期頃の大磯駅                            現在の大磯駅
 
 
 大磯駅と伊藤博文 大磯駅を通る東海道線。この東海道線が全線開通して今年で120周年を迎えます。
 明治5年5月7日、品川・横浜間に日本初となる鉄道が仮開業され、同年10月14日には新橋・横浜間の鉄道が正式に開業されました。その後横浜から国府津まで鉄道が延伸され、明治20年7月11日、横浜・国府津間開通し、大磯駅が開業しました。新橋・神戸間の全線が開通したのは、これから2年後のことです。
 
 日本における鉄道建設には、財政上の問題をはじめ、政府内部や士族・庶民層による反対など、数々の障害がありました。しかし、日本の近代化に向けて、欧米文化の導入の必要性を主張する伊藤博文や大隈重信を中心とした開明派の尽力により、明治2年遂に鉄道建設が廟議決定されたのです。
 
 さて、話を大磯駅に戻します。
 大磯駅(停車場)が開業したのは明治20年7月11日。横浜・国府津間の延伸工事の当初、平塚から国府津までの間に駅は必要ない、という計画でした。誰よりも大磯駅の必要性を感じていた松本順は、これを聞いて非常に驚き、早速大磯駅の開設のため、原口要鉄道技師と交渉します。しかし、宿場制度の廃止後、寂れた一漁村でしかなかった大磯に目もくれず、松本の話は聞き入れられませんでした。そこで松本は時の内閣総理大臣伊藤博文に相談した結果、鶴の一声により大磯駅の設置が決定されたのです。
 当初は国府の中丸寄りに駅舎の建設が予定されていましたが、伊藤博文の意見に従い、町の発展のため海水浴場に近い現在の位置に建設されました。
 大磯駅開業によって、以後、海水浴客は増加の一途を辿り、また、政財界の重鎮たちの別荘が数多く建築され、保養地としての大磯の名は全国に広まったのです。
 
 明治42年、ロシア大蔵大臣との会談のため、満州に向けて臨時列車で大磯駅を出発した伊藤博文ですが、同年10月26日ハルビン駅頭で狙撃され、その後大磯の土を踏むことはありませんでした。  
 
 大磯駅と大磯町の発展に多大な貢献をした伊藤博文。大磯駅が彼の帰りを待ち続けて100年の月日が流れようしています。
 
(参考)『おおいそ駅史』大磯駅・昭和42年『おおいそ駅史』大磯駅・1979
     『日本国有鉄道百年史 第1巻』日本国有鉄道・昭和46年
 
※画像の無断転載を禁じます。






2009/02/17 16:47:07|大磯の偉人と文学
伊藤博文 没後100周年記念特集③「統監道」
 東海道大磯駅から滄浪閣へ向かう途中に「統監道」と呼ばれている道があります。この道は伊藤博文ゆかりの道です。 
 
 明治38年に締結された第二次日韓協約に基づき、日本は韓国の外交権を掌握、韓国は日本の保護国となり、漢城(現・ソウル)に統監府が設置され、伊藤博文は初代統監に就任しました。  
 伊藤が大磯駅と滄浪閣の往来にこの道を通ったことから「統監道」と呼ばれるようになったのです。  
 
 当時この道は非常に狭かったため、町長の発案により拡張され、そして沿道には桜や梅の街路樹が植えられました。 韓国から伊藤が帰ると、町民が花火を上げて出迎えたといいます。  
 こうした住民の厚意に応えるために、伊藤は近郷の人力車を四十数台を集めて、県知事・町長・校長・官公署の人々を招仙閣に招いたりしました。また、時には東京から名優歌右衛門を呼んで踊りを披露したり、横綱常陸山を招いて餅搗きの妙技を披露したこともあったそうです。
 
 このように、住民を深く愛し、そして住民から敬愛された伊藤博文の人物像がうかがえる逸話は、大磯に数多く残されています。
 
 (参考)高橋光『ふるさと大磯』郷土史研究会/昭和58年






2009/02/10 14:04:29|大磯の偉人と文学
昭和23年2月9日
写真:展望台から望む相模湾
 
 
 昨日2月9日は三井高棟の61回目の命日でした。
 
 三井総領家の第10代目の当主三井高棟は、安政4年第8代高福の八男として生まれました。明治5年には銀行業見習いのためアメリカへと留学し、2年後に帰国。
 その後、明治9年に発足した三井銀行に入行、そして明治18年に家督を相続し八郎右衛門を襲名します。明治42年には三井合名会社の設立に伴い、社長に就任しています。昭和8年に嫡男高公に家督を譲り引退するまでの間、変革期の三井家を主導しました。
 
 高棟が軍医総監橋本綱常から大磯の土地を購入したのは明治中頃、そして明治31年に別邸城山荘を建築しました。
 隠居後は関東大震災の被害を受けた城山荘の新築に着手し、昭和9年に竣工しています。
 邸内には「城山窯」と名付けた登窯が築かれ、また、昭和12年には戦争被害から守るため、東京今井町の三井邸内にあった国宝・如庵(千利休に茶道を学んだ茶道有楽流の開祖、織田有楽斎によって京都建仁寺正伝院内に作られた茶室)を城山荘に移築しました。この頃、高棟は生活の拠点を大磯に移しています。
 高棟は晩年をこの大磯で過ごし、そして昭和23年2月9日、91歳の生涯を閉じました。
 
 如庵は愛知県犬山市に移築され、城山荘は解体、そして現在は公園として生まれ変わった旧三井邸跡地ですが、かつて城山荘があった展望台からは、今も変わることなく、高棟が愛した大磯の景色が広がっています。
 
(磯龍)
 






2009/01/16 15:51:41|大磯の偉人と文学
伊藤博文 没後100周年記念特集②「博く文を学ぶ」
 長州藩周防国(現在の山口県)に生まれた伊藤博文は、吉田松陰の松下村塾に学びました。松下村塾からは久坂玄瑞や高杉晋作など、日本の近代化を担った数々の人材が輩出しています。
 伊藤博文は、品川御殿山英国公使館焼き討ちなどに参加するなど、攘夷運動に挺身しましたが、英国に留学したことで開国論に転じました。第一次征長後、高杉晋作による長州藩俗論党に対する功山寺挙兵では、伊藤博文は力士隊を率いて高杉晋作に従い、俗論派を一掃します。
 高杉晋作は明治という日本の夜明けを見ずして病死しましたが、この松下村塾の四天王の一人と評された高杉晋作こそ、若き伊藤博文に多大な影響を与えた人物なのです。
 伊藤は、もともと「利助」や「俊輔」などと称していましたが、維新後は「博文」と名乗るようになります。
 「博文」とは、『論語』にある
君子、博(ひろ)く文を学びて、これを約するに礼を以てせば、亦以て畔(そむ)かざるべきか。 
     (金谷治訳注『論語』岩波書店 2002 122頁)
という一文に由るものです。
 伊藤がこの名を名乗るようになったのは、高杉の勧めによります。
 「博く文を学びて」の通り、伊藤博文は、国内のみならず、岩倉使節団の副使として、また、憲法調査のために渡欧するなど、国内外において幅広い知識を身に付けました。
 明治30年に大磯町民になってからは、大磯小学校の新校舎建設のために寄付したり、貯蓄精神の養成のため、お祝いとして新入児童一人ひとりに郵便通帳を作らせたりするなど、町民の一人として大磯町の発展に貢献しました。
 伊藤博文がこの世を去ったのは明治42年。高杉晋作が亡くなってから実に42年後のことです。
    
(磯龍)






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