少年詩時評『またまた、少年詩とAI』 佐藤重男
□ 先日、同人誌『このて bV7』に収められている詩編についての感想のなか、作品『聞けよAI』に触れましたが、購読している新聞記事の切り抜きを整理していて、その中にあったĄIに関する二つの記事にとても刺激を受けたのでした。それは、次の二つの記事です。
『土曜訪問』考える力を育む教養 AI時代に問う人間の尊厳 石井 洋二郎(東大名誉教授) ―10月5日付東京新聞 『石川美南の短歌で遠出』AIが短歌を照らす ―10月12日付東京新聞
□ 一つ目の記事は、広義的なものであり、どちらかというと、ĄI(特に生成AI)対しての「警戒心」を呼び起こす主張というようにも読み取れますが、どうでしょうか。論考の一部を引いてみます。
「どこまでをAIに委ねるかは人間の判断だけれども、その人間の感性そのも のがAIに侵食され、まひしてはいないか」 「ネット社会の今は、ちょっと検索すれば知識を得ることはできる。問題は その先にある。知識を使ってどうかんがえるか。自分で考えなければ、何 が問題かはわからない」
そうです。問題の本質はAIではなく、それを使う人間の側にこそある、というのが石井が強調して止まないことなのです。AIを使って情報を得ることは手段であって、目的ではない、そこが、つまり、誰が「主人公」か、という領域が侵食されてしまっているのではないか、という警告なのだと理解していいでしょう。
□ 二つ目の記事、「AIが短歌を照らす」は、「短歌を新たな角度から照らしてくれるものとして、AIを活用していきたい」との締めくくりに、論考の真意があるというよりも、その前段で書かれている、
そう遠くない未来、AIは表面上、完璧な一首を作ることができるようにな る。だが、そうした短歌を30首、40首単位で読んだ時、そこに生身の作 者の癖や思い入れを見いだせないならば、読者は何を味わえばいいのか。
ここにこそ、石川の思いが集約されている、といって過言ではないのではないでしょうか。
□ わたしは、ĄIが作った少年詩の登場を否定しません。 そして、おそらく、それがAIが作った少年詩かどうかを問われたとき、即座に正答を返ことが出来るか、わかりません。 「これほど作者の人生そのものが反映された作品を目にしたことはありません」と言ったわたしの感想に対して即座に「これは、ĄIが書いたものです」と返されることがあるかもしれません。 * 恐らく、ĄIは、相当の時間をかけて数千、数万の少年詩を「学習」しているはずです。そして、今はどうか知りませんが、数カ月後には、その学習が一瞬にして可能になる、そんな社会になっているはずです。 一方、ĄIを活用しない書き手は、誰が何を主題にどう詠んだのか、それを知るすべもなく、目の前にある題材や風景を切り取って、自分の感性に従って、それを文字に表す、という家内工業%I手法で、詩作に取り組みます。 * わたしは、文学の一つの手法として、このような家内工業%I手法を支持します。おそらく、八百万の神々たちは、ここにこそ宿る、と信じているからです。
― この項 完 ―
いつものことですが、記事や作品等の引用に際しては、誤字・脱字等のないよう努めましたが、何かお気づきの点がありましたら、ぜひ、お知らせください。〈本文中、敬称略〉
2024.10.30 |