少年詩時評『書き手の「高齢化」は💮』 佐藤重男
□ 4月15日付の東京新聞記事によると、0〜14歳の子どもの人口は、「34万3千人の減の1383万人」だと言います。 わたしの自家製の年表によると、子どもの人口は、 1970年 2482万人 1980年 2752万人 1990年 2254万人 2000年 1851万人
などとありますから、今回の1383万人は、80年の2752万人の半分弱、ということになります。 一方、65歳以上の「高齢者」は、3624万3千人で、1980年の子どもの人口を上回っています(同・東京新聞)。 * 以上の数字から、わたしたちは、少年詩の読者対象である、子どもの人口減は憂うべきことだ≠ニ考えがちですが、わたしは、そうは思いません。 まず、「高齢者」という考え方をやめ、子どもに向かって書く「大人」、というようにしませんか。 そうすると、なんと、子どもに向って詩を書く大人たちが増えている、ということになります。
□ 数の問題だけではありません。 その証左として、次の作品を掲げます。
貝がらは 鈴木初江
引き潮の ぬれて光る 波打ちぎわに ひらいたままの うすももいろの 貝がら
夏の日には うすい二枚のからをとじ わずかなすきまに やわらかな命を だいていた
あの大切なものは どこへ消えたのか 貝がらは くりかえし 波にきいている
残された 二枚のからを 耳のように そばだてて
『新潟児童文学2024年版』より
□ この作品の主人公≠ヘ、子どもではありません。 にもかかわらず、わたしは、ぜひ、子どもたちに読んでもらいたい、そう思います。 なぜなら、この作品には、「人間とは何か」という本質的な命題が込められているからです。 そして、それは、子どもの未来志向≠ニ重なるものを内服している、と考えるからです。 わたしたちは、生まれてきたからには、なんとしても生きなければならない、そんな定め(宿命)を負わされている、わたしはそう思います。 そういう意味では、年少の子どもたちは、齢百歳近いお年寄りの思考と重なるものを持ち合わせている、そんなふうにさえ思います。(作品「貝がらは」の作者はまだまだ若いです) * あってはならないことですが、「いじめ」にあっている子どもたちにとっては、その毎日は、長く生きてきたわたしたち大人が直面している日々の苦しみや悩み、葛藤などに比べようもないほど過酷なものに違いありません。 だからこそ、生き延びてきた大人たちの「声」が、そんな子どもたちに届かないはずがない、わたしはそう思うのです。 * わたしは、高齢者の増加=児童文学に関わる大人たちの増加は、逆説的かも知れませんが、プラス要因だ、と捉えます。 高齢者の数が増えているということは、子ども読者を意識した大人たち=児童文学の書き手が増えている、ということであり、それは歓迎すべきことだ、と言えるのではないでしょうか。 そういう意味では、子どもが登場しない少年詩≠ェ、少年詩の新しいジャンルとして認知されていい、わたしはそう思うのです。
□ 繰り返しになりますが、書き手の高齢化=子ども世界からの疎遠、という「常識」は、通じません。 逆です。 大人のわれわれは、疑いもなく「子ども時代」を過ごしました。そして、多くの人たちは、それを大切にしてきました、それを、文学という形で表現したい、と切に感じている人たちがいます。子どもたちに、「エール」を送りたい、と願っている人たちがいます。それを表現することに、果たして、年齢は「制限」として立ちはだかるものでしょうか。 しかも、高齢の人たちが、「もっと」という意識を持ち合わせているとしたら、言葉の持つ力を信じているとしたら、ぜひ、その思いを言葉で表現して欲しい、そう思わずにはいられません。
□ 80歳を過ぎてから書きはじめた作品が大ヒットした、というイギリスの児童文学の作家がいます。 作品は、必ずやこどもたちの手に届く、そのことを信じて、多いに書きまくりましょう! なんて言ったって、子ども読者は、1383万人(0〜14歳)もいるのですから!
― この項目 完 ―
いつものことですが作品等の引用にあたっては、誤字・脱字等のないよう努めましたが何かお気づきの点がありましたら、ぜひ、お知らせください。
2025/4/22 |