同人誌『小さな詩集U 6号』の詩編を読む 佐藤重男
□ 同人誌『小さな詩集U 6号』(「小さな詩集」の会 2025.11)が届きまし。 同人10名の作品16編が収められています。 いつものように、順に見ていこうと思います。
□ たの みつこ「河原の小石」「秋」 作品「河原の小石」の出だし、「はじめまして丸くて すべすべ 無口な君を手のひらにのせて 目を合わせる」 河原の小石に向かって、あいさつ=声かけし、目を合わせる、…すごいことだと思いませんか? さらに小石の匂いをかいであげたら、…。わーお、ですね。 ドキドキしながら、読んでったわたしは、ラスト、「君に触れた 最初で最後の人間」をどう読むか、ちょっと悩みました。 「最後の人間」とは、「きみ」と「わたし」の関係性に関わる何かの比喩なのでしょうね。 * 作品「秋」も、小さきものへ注がれる慈愛の眼差し、と言いたくなりますが、そんな使い古された美辞麗句は、この作品には似合いませんね。 空と風、誰のものでもないのに、独り占めできる、それは、小さきものの特権≠ネのかもしれません。 「小穂」…、読めませんでした。ネット検索しました。 【小穂(しょうすい)。イネ科やカヤツリグサ科における花を含む構造のこと】 ―フリー百科事典「ウィキペディア」より □ はたちよしこ「ねこ癖」「もみじの葉」「バク」 作品「ねこ癖」の、「ねこ用の皿」と「ねこ」の思惑の落差、というか、両者の生き方の違いのようなものを示唆してくれているようです。それにしても、皿とねこにインタビューしてみる、という発想の面白さ、堪能できました。 * 作品「もみじの葉」は、「赤いもみじの葉っぱ」→幼いこどもの手、という社会通念を使って鮮やかに描いています。 ラスト、「――早く 手をあらいなさい」と、せっかちに促す場面が秀逸です。「二枚」もうまいですね。両手、であることを示唆しています。 * 作品「バク」は、バクは夢を食べる、という常識=固定概念を打ち壊してくれます。自分の怖い夢は食べない、というオチがなんとも面白いですね。
□ 檜 きみこ「くもり空」「銀の歯」 作品「くもり空」は、日常のなかの非日常をうまく掬い取った作品。 朝、布団から抜け出せずにぐずぐずしている「わたし」、くもり空のせいにしていませんか? * 作品「銀の歯」は、わらうと見えるおばあちゃんの歯。年寄りには「歳のせい」と、否定的にしか思えない銀歯。それを「メカ」(=機械的なそれ)みたいでかっこいい、と。 うーむ、子どもの見立てには叶わない!
□ みやもとおとめ「頁」「再会」 作品「頁」は、あるあるの世界。日記や備忘録の類は、どうも三日坊主で終わる運命のようです。 もしかしたら、「美しい表紙」がいけなかったのかもしれませんね。 * 作品「再会」は、本文を読み進めていくに従い、なるほど、このタイトルでないと、と合点がいきました。 日常に紛れ込んでいる些細なことを知らせてくれたことへの感謝の気持ちを「再会」と表現できることの、なんと羨ましいことでしょう。
□ 雨森政恵「二本のオールで」 作品「二本のオールで」は、わたしたちは一人では生きていけない、そのことを教えてくれているような気がします。 オール一本なら「わたし一人」、そして、二本目のオールは、隣にいる「伴走者」を指しているのに違いありません。 そのようにして、何もかもが、助け合いながら、それぞれに一生懸命に生きていくのだ、と。 □ 大岳美帆「海と駅弁」 作品「海と駅弁」は、ちょっと切ない気持ちにさせてくれました。 おばあちゃんの家に向かうために、海辺を、ガタンゴトンと走るローカル線の電車のなか、一人で食べる駅弁は、 「おとなになったようで うれしいような かなしいような味がした」 というのです。 きっと一人で食事をすることなどなかったのでしょう。 一人で駅弁を食べること、それは非日常の出来事であり、いわばその「試練」を乗り越えることが「おとな」になったような気分にさせたのでしょうが、やはり、一人で食べる駅弁は、「かなしいような味」がしたのに違いありません。
□ 島村木綿子「日傘いつまで」サザンカ」 作品「日傘いつまで」は、なんでもかんでも携帯電話に頼っている日常が「常態化」していることに気付き、縁切りしようと抗ってはみたものの、日射しの強さに思わず携帯を握りしめた、ということでしょうか。 * 作品「サザンカ」は、冬に咲き誇るサザンカの様態を、「おしゃべり」「ひしめき」「さざめいて」「笑って」など、いくつかの言葉を絵の具代わりにしてキャンバスに筆を走らせているようです。
□ 白瀧慎里子「水の中」 作品「水の中」は、哲学、の世界です。 にもかかわらず、子どもたちが、この詩を目にしたとき、その深遠な世界、そして、はじめてのはずなのに、出会ったことのある既視感(デジャブ)を覚えずにはいられない、そう思わずにはいられません。 もちろん、大人の読者にしとっても。 「自分の重さ」という身体感覚は、詩ならではのもの、と思わずにはいられません。
□ 白根厚子「南天の花」「ペリカン」 作品「南天の花」は、大人の世界観、とも言えますが、だからこそ、ここで詠われている世界は、いってみれば、歳を取れば幼少時に還る、いわゆる「還暦」という考え方に通底するものがある、そう思わずにはいられません。 * 作品「ペリカン」は、わずか5行の作品ですが、これぞ少年詩、という素材と視点が詰め込まれているのではないでしょうか。 それにしても、なぜ、ペリカンの口はあんな形をしているのでしょうね。そして、それを与えてくれたあのヒトの使命を、しっかりと全うしているようです。
□ いつものように、駆け足での感想になりました。 * ことしも、あとわずか。 こうして、少年詩・童謡の同人誌に向き合うことができたことの幸いに感謝したいと思います。
― この項 完 ―
いつものことですが、詩集掲載の作品の引用、書籍の紹介などにあたっては、誤字・脱字等のないよう努めましたが、何かお気づきの点がありましたら、お知らせください。
2025.12.11 |