A10神経痛

 
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2012/12/15 16:43:00|その他
⑫ nothing

 ぼくは深く沈み込む一人掛けのソファーに座り声の導くまま従った。
 ぼくはマスターを信頼していたようだ。何も疑いなく心を許せたからだ。
 最初マスターが催眠をかけると言ったときには、ふざけているのだと思ったが、 彼の声は心地よく、心の凝りみたいなものがしだいに解れていくのがわかった。
 「イメージしてください、私が運転する車の後部席にあなたは乗っている。そうですね、それはタクシーの様に運転席と後部座席は隔たれていて、ある意味あなたの空間が確立されている。」
 マスターはそう言って一息ついた。
 「私はアクセルを踏んで、車を走らせます。この車は現在から過去へと走る車です、窓からは懐かしい景色が見える筈です。私はあなたを過去に送る車を運転しています。私がアクセルを深く踏めば踏むほどもっともっと過去へとあなたを送ることができます。」
 不思議なことに、そう言われると体に加速度がかかるのがわかった。僕は過去に走っているのだと普通に思えた。                               

 なにか懐かしい匂いがした。人間の感覚で直接過去へと導くのは匂いではないかと思う。具体的に何の匂いかはわからないのだけれど、それは、いろいろと変化しながら僕の体の周りに漂っていた。


 結論から言うと、結局退行催眠は失敗に終わった。例えるなら、「過去」と書いてあるファイルをどれだけ開けてもすべて空だったという感じだ。
 「私にはアクセスの許可が下りなかったみたいだね」マスターはそう言った。
 「いいんですよ、なんだか気持ちはすっきりしたし。それから、あまり期待していなかったから」
 そう言って笑った。
 「過去ってなんだと思いますか?」
 マスターが言った。
 「・・・なんだろう、過去は過去だけど」
 「私は、過去なんてただのイメージなんだと思います。」
 「イメージ?」
 「そう、普通の人にとって過去なんて曖昧なものだと思うんです。例えば、今こうして話している状態と同じように過去をリアルに思い出せる人なんているでしょうか。この瞬間からどんどん過去へと時間は流れ、それはイメージとなって私たちの中に溜め込まれていく。あくまでもイメージとして。」
 僕はなんとなく理解できた。
 「そして、あなたの過去はあなただけのものだし、私の過去は私だけのものです。」
 「だけど、過去は他の人とも共有していますよ。現在もだけど・・・」
 僕は言った。
 「それでも、あなたの過去はあなただけのものです。」
 マスターはそう言って、椅子に深く座りなおした。 
 「ものごとの認識は人それぞれです。あなたにとっての事実はあなただけのものです。大雑把なものごとは共有できますが、事実は私だけのものだし、あなただけのものです。」
 マスターはそう言って、紅茶をすすった。
 「本を読んだりしますか?」
 マスターは本棚に目をやった。
 「いえ、本はあまり読みません」
 僕は言った。
 「あの、別に本をたくさん読んだからっていいて訳じゃないんです。ただ、人が現実に体験することはとても限られてます。」
 そう言ってどれか一冊持って行くように言った。
 本棚にはあらゆる種類の本があった。よくは分からないが、とにかくあらゆるジャンルの本がある。それはまるで、無作為に選ばれた人たちが、無理やり押し込められているような居心地に悪さを感じた。
 何となく眺めていると、赤い背表紙の本が目に留まった。その本に指をかけると、マスターはその本をもっていくように言った。

 「NOTHING」
 
 これがこの本のタイトルだ。
 



 

 
 
 
 





 







2012/10/06 14:56:00|その他
⑪J・Sバッハ

 少し早い時間に店のドアを開けるとマスターが、一人ギターを弾いていた。
 マスターは僕に気づかず、例のクラシックギターを弾いている。アドリブでフラメンコ調のフレーズを繰り返していた。それは悲しげで、秋の夕日にとてもあっていた。フラメンコ調のフレーズを一通り弾き終わると、1つ小さく深呼吸して、バッハのブーレを弾き始めた。一つ一つの音の輪郭がしっかりとしていて、間合いにも余裕があり、プロ並みの演奏だった。
 演奏が終わり顔を上げたマスターと、目が合った。一瞬驚いた顔を見せたあと、「僕の演奏は高いですよ」と言って少し笑顔をつくった。僕は入口に立ったまま動けなかった。久しぶりに生で素晴らしいギターを聞いて感動していた。


 僕は、夢でジンの叔母さんから貰った紙切れに書かれていた日付にこの店にきた。もしかしたら、本当に彼女が現れるのではないかと思ったからだ。というより、ほとんど確信していた。
  店のドアが開く音がして、彼女が入ってきた。時計を見るとちょうど約束の時間だった。カジュアルな服を着た彼女は若々しく見えた。僕の隣に座ると、少し考えてからコーヒーを頼んだ。店に漂うコーヒーの香りは疲れた心を違う場所へ追いやってくれる。
 彼女はいきなり話を切り出した「私はたぶんあなたと私たちを繋ぐ役割があったんだと思うの。」
 「私たち・・・」僕は言った。
 「うん、そうね。あなた以外って言ったらいいかしら。」
 「よくわからないんだけど・・・」
 僕はビールに口をつけた。
 「そうね、いいわ。じゃぁ、私なりの解釈を説明する。いい?」
 そう言って、彼女は僕の目を覗きこんだ。
 「ええ・・・」
 僕は言った。
 「『私はあなたと私たちを繋ぐ役割があったんだと思うの』って何故過去形なのかというと、今は違うからなの。それで、わたしは口がきけなかったし、それは私たちとあなたを繋ぐ役割だからという理由があるんだと思うけど、そういう意味で私は当時存在したの」
 彼女はコーヒーの香りを嗅ぐ程度に口をつけて、続けた。
 「何故いまは違うのかって思うでしょ?それは、もうあなたが私たちと繋がりはじめているから。わかるでしょ?。あの当時はあなたがこんなにカオルさんに執着するなんて思わなかった。そして世界を変えてしまった。ちょっと違うわね、元々あるあなたの世界をあなた自身が不自然に思えるほど時間的にも急激に変化させてしまった。こういうことだと思うわ。」
 よくわからないが、彼女に言わせると僕はとんでもない事を気づかないうちにしてしまったらしい。
 「ちょっと、うまく理解できないけど。なんとなくわかりました。ただ、あなたは最初『私なりの解釈』といったけど、今まで言ったことはある意味あなたの想像とか推測とかいったものですか?」
 僕は言った。
 「その通り。私の立場って不確実だしある意味あなたと同じなの。ただあなたと違うのはあなたより少し慣れているってことぐらいかしら」
 そう言うと彼女は少し自慢げな笑顔を向けた。
  彼女の話を聞いていると、なにかの悪徳商法に騙されているような気持になった。
 「僕はこの世界を変えた・・・」
 僕は言った。
 「違うわ、正確には『あなたの世界を変えた』よ。なかなか理解するのは難しいかもしれないけど・・・」
 彼女はそう言うと、僕の足元を見て言った。
 「その素敵なバスケットシューズいつ買ったの?」
 唐突な質問に咄嗟に答えられなかった。
 「じゃぁそのミリタリーバックは?」
 僕はあらためて靴とバックを見た。今まで全然意識しなかった。というより、今はじめて見たのだ。バスケットシューズもバックも買った記憶がなかった。
 僕の頭は凍りついて機能を停止した。もう、なにがなんだか分からなくなってしまった。僕は今しか生きていなのか?なんだか自分がペラペラで薄っぺらな人間になったような気がした。
 「驚いたでしょ?」
 そう言うと、彼女は心配そうな顔をした。


 店にはバッハのリュート組曲がループで流れている。演奏はジョン・ウィリアムスだ。クラシックに疎い僕でもバッハが他の作曲家とは異質な存在だということはわかる。心の奥底にまでとどくような旋律。僕もこの旋律に乗って自分の心の奥底にまで下りて行きたいと思った。いったい僕は誰なのだ。


 「LSDって当初は合法だったって知ってますか?」
 唐突にマスターが言った。
 「LSDを服用するに時は、案内人のような人が必ず一人付いて幻覚をコントロールするって感じだったと思います。当初は知識人の間で流行し、神の領域から悪魔の領域まで見ることができた。まぁ、いずれ何人も廃人を作り出すのですが・・・」
 グラスを棚に片付けながら続けた。
 「人間って誰でも現実をうまく受け止められないときがあります。ときに人間には幻覚や妄想なんかも必要なんじゃないでしょうか?実際、脳内の受容体はLSDの成分を受け取って幻覚を作り出す。もともとLSDの成分と似た神経伝達物質が存在することだと思うのです。人間は、特に戦争やそれに類する状態の時などに理不尽な現実を受け止めることができず幻覚剤などのドラッグに手を出す。ベトナム戦争からのドラッグの蔓延はそういうことだと思います。
 今の時代は先進国でははっきりとした戦争状態にある国はないと思うけれど、人間の『戦争する気持ち』みたいなのはどこかに溜まっていきます。それは社会や経済などに反映するのかもしれません。平和ボケなどと言いますが、実際に平和だなんて感じている人はいるのでしょうか?」
 マスターはそう言って僕に顔を向けた。
 「退行催眠って知っていますか?」
 マスターが言った。
 「いえ・・・」
 「まぁ、一種の催眠術なんですが、記憶をどんどん退行させていって過去の記憶を探るっていうのなんですけどね、かなりリアルらしいです。上手くいけば自分が生まれる前、よく言われる前世を体験することができるらしいです。やり方は先ほど話したLSDとほぼ同じで、案内役が過去に導くと言った感じです。ただ、案内人とのラポール(信頼感)がなくてはなりません。催眠術の類はそういうものです。信頼感がなくてはうまく導けませんし、フェアな信頼があれば薬物を使わなくても心の奥まで窺うことがことができます。」
 そう言って少し顔を崩した。
 「一度やってみたらどうですか?」
 マスターが言った。
 「僕がですか?」
 「そうです。いや、無理にって訳じゃないんですけどね、たまたま信用できる人を紹介できるもんですから。もしかして、今のリョウさんには必要なんじゃないかって・・・」
 そう言ってマスターは鼻の頭を掻いた。
 戸惑っていると、彼女が「やってみたら?悪くない選択だと思うけど」と言った。
 僕もそう思った。そして自分が知りたかった。僕の心の奥を覗いてみたかった。
 


 







2012/09/05 13:05:50|その他
⑩夢

 「支配 人」
 名刺にはこう書かれている。
 よく見ると「支配」と「人」とにスペースがあった。
 支配を辞書で調べると『あるものの意志・命令・運動などが、他の人間や物事を規定し束縛すること』とあった。


 ジミー・ヘンドリックスの「リトルウイング」をCDに合わせて弾いてみると、彼が独特のリズム感をもっていることがわかる。感情の起伏というか、そういうものがリズムに影響しているのかもしれない。
 ネックを握り、親指でルート音の6弦を押さえる。僕は指が短いのでかなりきついが、これができないとジミヘンらしくは聞こえない。そもそも、だれも彼と同じようには弾けないのだけれど。
 もちろん、彼のアンプはマーシャルで、例の歪まないMarshall1959SLP 100Watt Super Lead Plexi Headだ。実際、彼の音はとてもクリーンだ。
 僕はもう少し歪ませて弾く。そして、この音が大好きだ。


 エレクトリックギターは、ある程度のテクニックも必要だけど、僕はそれ以上に音色が重要だと思う。個性的で良い音。これがなかなか難しのだけど・・・
 この前、WOWWOWでたまたま見た絢香のライブ。そのギターリストにやられた。フェンダーのアンプとギブソンのレスポール(たぶん)で、もの凄い音を出していた。まさに個性的て良い音だった。そのおかげで、絢香のライブを最後まで見ることになってしまった。もちろん、絢香の歌や他のメンバーも素晴らしかったからだけど。


 僕はベットに体を投げだし、窓の向こうの空を見ながら「支配」について考えた。
 もし、自然あるいは宇宙に意志があるとしたら、僕らはその支配下にあるのだろうか?地球上のあらゆる出来事に宇宙は干渉しているのだろうか?今の延長線上にある未来に行く事ができたとしたら、そこにあるのは、もしかしたらその意思に導かれた結果なのではないだろうか?僕たちは自分自身に意思があるように感じているが、それ自体が実は何かもっと大きな意志の下で操作されているのではないか?僕らは、誰も気が付かないが、完全に支配されている。
 そんな妄想とも空想ともつかない事を考えていると、いつのまにか眠りについてしまった。


 夢を見ている。
 またいつもの場所だ。僕の夢の世界にあるこの場所。確実に存在している。
 いつも僕は、この病院の階段を上り、各階ごとの病室をまわって誰かを探している。誰を探しているのかはわからないのだけど、とにかく早くと焦る気持で探し回る。今にも泣きだしそうな気持だ。看護師に何度もすれ違うのだけれど、皆冷たい感じがして尋ねることができない。そもそも、誰を探しているのかもわからないのだ。
 しばらくして、ある病室を覗くと手前のベットだけカーテンがかけられてる。僕はどうしてもそのベットが気になって立ち止まった。中には人の気配がする。誰かいる。よく見るとカーテンの下に足が見えた。誰かがベットに座っているようだ。
 僕はカーテンの隙間から中が見えないか少し近づいた。すると、勢いよく中からカーテンが開いた。そこにはジンの叔母さんが座っていた。喉にはチューブが刺さっていて、その周りに包帯が巻いてある。チューブの先は酸素に繋がっているようだ。
 彼女は僕をみて少し微笑むと、手を伸ばして何かを差し出した。それは、何かの紙切れだった。僕はそれを取った。そこには日付が書いてあって。
「あの店で」とあった。顔をあげると、そこにはもうベットが1つもなく、がらんとした病室になっていた。開け放った窓に一羽のハトがいて、こっちをしばらく見てから空に羽ばたいた。


 
 現実の世界で目を開けると、もうあたりが暗くなっていた。窓の向こうはもう空ではなく宇宙になっている。体を起こして、窓から入ってくる空気を浴びた。日中の熱せられた空気と変わり、ひんやりして気持ちよかった。
 なんとなく、窓枠に目をやると鳥の羽が1枚落ちていた。
 ハトの羽のようだった。
 
 







2012/08/21 11:28:48|その他
⑨現実


 「そう、だからそこまでフレットが削れてたなら打ち直しのほうが良かったんじゃない?道具なら貸せるよ。もちろん私がやってあげてもいいけどね。有料。」
 そう言うと店長は、マスターを見て笑った。
 「自分でやります。それじゃ道具こんど借りに行きます。ミディアムジャンボのフレットおいてありますか?」
 「あるよ。まいどあり」
 わざと不機嫌そうに口を曲げウイスキーに口をつけた。


 カオルを待っている。
 久しぶりに会うマスターは、以前と少しも変わらずそこにいた。チーズたっぷりのピザも相変わらず美味しい。ここの時間はゆっくりと流れている。
 「なんでまたギターなんて始めたの?ずっと弾いてなかったでしょ?」
 店長は聞いた。
 「やっぱり、音かな?」
 「音?」
 「そう、音。真空管のアンプに通したあの粒立った音。たまらないです」
 「いいねー。ムラードのプリ管あるけど、どう?マッチング済み4本」
 「もう、勘弁して下さい。欲しいです。けど・・・」
 「大丈夫。嘘だから」
 そう言って笑った店長の顔を僕は睨み付ける。彼は怒るなよと言って僕のピザを一切れ食べた。まったくとんでもない楽器屋だ。


 ドアが開く音がして、店にジンが入ってきた。
 後ろに立って「よっ、相棒」と言うと僕の頭をなぜた。 
 隣に座ると美味しそうにビールを飲み「大丈夫か?」と聞いた。僕はどういう意味か頭を巡らせていると、そういう僕を悟ったように「かなり混乱してるよね?」と続けた。
 「おまえの事だよ。いろいろあったでしょ?異常なことが」
 ジンはそう言って片目をつぶった。
 「知ってるのか?」
 「あぁ、もちろん」
 「じゃぁ、カオルさんの事も」
 「あたりまえだ。俺の妹だ」
 「・・・妹?」
 「いや、そうか。なんだかわからないけど、何となくはわかるよって事」
 少し慌てた顔を隠すようにビールを飲み干した。
 「じゃぁ、この異常な状態は僕の頭の中だけの話じゃないって事だな?」
 「うん、そういう事。現実さ。そろそろおまえにも少しは気づいて欲しいみたい」
 「どういう事だ?」
 「まぁ、あわてるなよ。少しづつ。少しづつだ。」
 ジンはそう言って笑った。
 「・・・ジン。何を知ってるんだ。何が起こってる?」
 「いろいろさ・・・」
 そう言って席を立った。
 「ジン!」
 僕が言うと、片手を上げて「もうすぐ来るよ。カオル・・・さん?」と言い店から出て行った。 
 僕は一人取り残されたような気持になった。マスターも店長も、ジンがいた事など気が付かなかった様子だった。店長はマスターに真空管のエイジングの説明をしていて、マスターは生ハムを切っていた。僕は何故か彼らに演技じみたものを感じた。すべてにおいて現実味が感じられなくなってきたのだ。隣で話している店長の手の甲に、このホークを突き刺しても、そのまま話し続けるのではないか?そんな感覚に襲われた。


 ドアが開く音がして、彼女が入ってくる。
 やはり彼女を見てしまうと鼓動が速くなって少し胸がきつくなってしまう。
 「マスター、ビールください」
 そう言って、さっきまでジンが座っていた僕の隣に座った。
 「やぁ、また会えたね」
 僕はそう言ってから考えた、このカオルさんは僕の知ってるカオルさんなのだろうか?
 「えっ?え~っと誰だっけ?」
 彼女はそう言って、驚いたように僕を見た。
 それから、唖然としている僕を見て彼女は吹き出した。
 「やだっもう、冗談よ。冗談。何よその顔」 
 笑い続ける彼女を見てもまだ顔の硬直は戻らなかった。
 「ねぇ、乾杯」
 グラスを合わせると、彼女にとても似合ったいい匂いがした。
 「ジンが来てたでしょ?」 
 「・・・ああ」
 僕はもう驚かなかった。
 「話は聞いた?」
 そう言って、髪の間からいたずらっぽい瞳をのぞかせた。
 「うん。・・・キミも知ってるんだね」
 そう言うと、なんだか彼女に裏切られたような気持になった。
 「裏切ったりしてないよ。大丈夫。ほんとだよ」
 誤解をとくような真剣な顔で彼女は言った。そして彼女は僕の心を読んだ。
 「キミは誰なの?」 
 僕が聞くと、驚いたように幼馴染のカオルだと言った。
 「もう、さっきの仕返しね」
 そう言って楽しそうに笑った。
 「何ずーっとそんな顔してんの?飲もう」
 そう言って、マスターにビールを注文した。
 こんな気持ちになったのは初めてで、うまく表現できない。
 彼女は美味しそうにビールを飲んだ。そして、僕の耳元で「海に行きたいな」と言った。もちろんこれは僕の記憶にある過去だ。過去をなぞっているのだ。


 防波堤に彼女と座って海を見た。夜の海は白い波がぼんやりと見えるだけで、潮の匂いと波の音がその大半を占めている。
 「キミは誰なの?」
 僕はもう一度聞いた。
 「・・・」
 彼女は答えない。
 「ごめんなさい。もう帰りましょ」彼女は背筋を伸ばし勢い良く立ち上がり、ぼくの手を引っ張った。そして、微かに抱き合った。彼女は小さな声で「名刺に書いてあるわ」と言った。


 
 
 
 
  







2012/08/20 19:23:40|その他
⑧ここにいる

 また、夏が終わる。
 いや、また夏が終わろうとしている。
 何事も終わりの前兆はネガティブにして感慨深いものがある。


 僕はまだ、ここに取り残されている。こうして、すべての情報に晒されてここにいる。
 もちろん、僕の知りうる全ての情報ということだ。僕の知らない情報など、ぼくにとっては何も意味が無いのだ。雲の上に別の世界があったとしても、誰もそれを確認できなければ「無い」と同じだ。


 ギターのネックをはずしながら、僕は頭を巡らせていた。
 彼女に会うにはどうすればいいか考えているのだ。 
 どう表現したらよいだろう。この感情は恋とは違うと思う。 
 支配されているのだ。脳が支配されている。そんな感覚だ。  


 このギターは、MOONのカスタムギター(ストラトタイプ)で、ボディー材から何からオーダーして作ってもらったものだ。 ピックアップはセイモアダンカンのSSL-1で、ボティー材のアッシュと相まって、甘く芯のある音がする。 
 長く使っているので、フレットがかなりへこんでいる。3フレットから7フレットにかけてが特に酷い。そこで、フレットのすり合わせをするためにネックをはずしているのだ。
 
 ヘルメットをかぶり、ホームセンターへ向かった。すり合わせには、マスキングテープと紙やすりが必要だ。それから、楽器屋で弦を買う。ヤマハの009からのセットだ。いろいろ評価はあるだろうが、僕にはこれがしっくりくる。 


 楽器屋のドアを開けると、店の奥から電話で話す声が聞こえた。それから、アンプの前に座ってベースを弾く女の子の後ろ姿。 
 ギターの弦を物色していると、後ろから「いらっしゃい」と声がした。電話が終わったようだ。 
 「マスターの店行ってる?」 
 そう言うと、店長は1弦から6弦まで、一個づつ揃えてくれた。
 「いや最近は・・・」 
 僕は言った。彼もあの店の常連で、何度かカウンターで一緒になった。あの店のギターを売ったのは彼だ。 
 「マスター寂しがってるよ」
 僕はだまっていた。
 「ビビってる」 
 さっきから、1音1音確かめるようにベースを弾いていた女の子が控えめに言った。
 「12フレットからのハイポジションにビビりがあります。それから、オクターブ調整ができてません。」
 そう言うと、ハイポジションで、ペンタトニックスケールを綺麗にひいた。
 確かにビビりが出ている。 
 「あぁ、それ調整まだなんだ、ごめん。もう、調整しとけっていったんだけどなぁ」
 そう言って、僕にふざけた笑顔をむけた。
 この店あなた一人しかいないでしょ。と心の中でつぶやくと、彼女が振り向いた。  


 「・・・カオルさん」  
 心臓がひとつ大きく脈打った。そして、細かく、速くそれは続いた。
 なんで、ここにいるの?
 支配の衝撃は恋より激しい。
 彼女は怪訝そうに僕を見て少し頭を下げた。
 僕も彼女を見た。瞳の中に僕の記憶を探してみたが、それらしいものは見つけられなかった。
 「知り合い?」
 店長が僕の不自然な態度に聞いた。
 僕は早く会計を済ませ、店の外に出ようとした。
 「・・・リョウ・・・くん」
 振り向くと、彼女は懐かしい景色でも見ているような顔で、微笑んでいた。


 彼女に誘われて向かいの喫茶店に入った。
 彼女はアイスコーヒーの氷をストローで突きながら、昔僕の家の隣に住んでいた事、近所の神社で泥団子を作って遊んだ事、家族ぐるみでキャンプに行ったことなど、思い出しながら楽しそうに話した。
 そして、その記憶は僕のものと同じだった。「イワタカオル」僕の幼馴染だ。


 いったいどうなっているのだ。僕が望むと彼女は現れる。それも、形をかえて。もう、ジンの妹でもないのだ。何が起こっているというのか。僕は本当におかしくなってしまったのか。どんどん世界が変化している。彼女との出来事は、遠い昔のようだし、ついさっきの事のようにも思える。時間とはそもそもあやふやなものなのだ。それぞれの認知の問題だ。そして、この世界や現実だって。
 僕は必死に平静を装った。何故だかわからないが、そうすることがいいと思った。気づかれてしまったら、もう二度と彼女に会えないような、そんな気がしたのだ。


 最後に彼女は名刺を渡し、また会いたいと言った。もちろん僕も同意した。
 彼女は店の出口で振り向くと、電話をかけるポーズをした。僕は軽く手をあげてそれに答えると、綺麗な笑顔で手を振って出て行った。
 さぁ、いったい僕はどうしたらいいのだろう。あきらかに、僕か、この世界のどちらかが狂っている。もしかしたら両方かもしれないが。
 ただ、確実なのは僕は彼女が好きだということだ。支配されていると思えるくらい。これは間違いない事実だ。
 そうだ、これからフレットのすり合わせをしよう。そして弦を張り、彼女に電話する。それから、また考えればいいだろう。


 名刺には大きく名前が書かれていた。その左上には小さく「支配人」と書かれている。その他には電話番号とメールアドレス、会社名はどこにも書かれていなかった。
 「・・・支配人」
 僕はつぶやいた。
 
 


 


    







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