ぼくは深く沈み込む一人掛けのソファーに座り声の導くまま従った。
ぼくはマスターを信頼していたようだ。何も疑いなく心を許せたからだ。
最初マスターが催眠をかけると言ったときには、ふざけているのだと思ったが、 彼の声は心地よく、心の凝りみたいなものがしだいに解れていくのがわかった。
「イメージしてください、私が運転する車の後部席にあなたは乗っている。そうですね、それはタクシーの様に運転席と後部座席は隔たれていて、ある意味あなたの空間が確立されている。」
マスターはそう言って一息ついた。
「私はアクセルを踏んで、車を走らせます。この車は現在から過去へと走る車です、窓からは懐かしい景色が見える筈です。私はあなたを過去に送る車を運転しています。私がアクセルを深く踏めば踏むほどもっともっと過去へとあなたを送ることができます。」
不思議なことに、そう言われると体に加速度がかかるのがわかった。僕は過去に走っているのだと普通に思えた。
なにか懐かしい匂いがした。人間の感覚で直接過去へと導くのは匂いではないかと思う。具体的に何の匂いかはわからないのだけれど、それは、いろいろと変化しながら僕の体の周りに漂っていた。
結論から言うと、結局退行催眠は失敗に終わった。例えるなら、「過去」と書いてあるファイルをどれだけ開けてもすべて空だったという感じだ。
「私にはアクセスの許可が下りなかったみたいだね」マスターはそう言った。
「いいんですよ、なんだか気持ちはすっきりしたし。それから、あまり期待していなかったから」
そう言って笑った。
「過去ってなんだと思いますか?」
マスターが言った。
「・・・なんだろう、過去は過去だけど」
「私は、過去なんてただのイメージなんだと思います。」
「イメージ?」
「そう、普通の人にとって過去なんて曖昧なものだと思うんです。例えば、今こうして話している状態と同じように過去をリアルに思い出せる人なんているでしょうか。この瞬間からどんどん過去へと時間は流れ、それはイメージとなって私たちの中に溜め込まれていく。あくまでもイメージとして。」
僕はなんとなく理解できた。
「そして、あなたの過去はあなただけのものだし、私の過去は私だけのものです。」
「だけど、過去は他の人とも共有していますよ。現在もだけど・・・」
僕は言った。
「それでも、あなたの過去はあなただけのものです。」
マスターはそう言って、椅子に深く座りなおした。
「ものごとの認識は人それぞれです。あなたにとっての事実はあなただけのものです。大雑把なものごとは共有できますが、事実は私だけのものだし、あなただけのものです。」
マスターはそう言って、紅茶をすすった。
「本を読んだりしますか?」
マスターは本棚に目をやった。
「いえ、本はあまり読みません」
僕は言った。
「あの、別に本をたくさん読んだからっていいて訳じゃないんです。ただ、人が現実に体験することはとても限られてます。」
そう言ってどれか一冊持って行くように言った。
本棚にはあらゆる種類の本があった。よくは分からないが、とにかくあらゆるジャンルの本がある。それはまるで、無作為に選ばれた人たちが、無理やり押し込められているような居心地に悪さを感じた。
何となく眺めていると、赤い背表紙の本が目に留まった。その本に指をかけると、マスターはその本をもっていくように言った。
「NOTHING」
これがこの本のタイトルだ。