(((中三二一障、神は恥知らずで無責任)))
(((中三二一障、
神は恥知らずで無責任の存在。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。
あと、監督官庁の営業許可、認可。民間も、監督官庁の営業許可、認可によって、営業出来ていると。免許が必要な仕事も有ると。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。
即ち、民間も、日本国首相が上司で有るという事です。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。
象徴天皇制の国民主権の日本国の日本国民で有ると同時に、日本国首相が上司で有るという事です。これが、日本国の有り方であり、日本国民の有り方と。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。
間接民主制と。
日本国には、上下関係が存在出来ているという事です。親子が存在出来ていると。
おそらく、親子がもはや存在出来なくなった方々は、直接民主制の大統領制の米国へ転生すると考えられます。日本国は、日本国民が直接、首相を選ぶ事は出来ない。即ち、上下関係が存在出来ている。親子が存在出来ている。しかし、米国は、上下関係がもはや存在出来ない。だから、米国民は、大統領を直接、選び続けなければならない。これが、聖書のバベルの塔事件の結果と。聖書の主なる神一人による全体統治が、潰された事件と。多言語化、多民族化しなければ、統治出来なく成った事件と。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。
これが、6の世界です。抽象思考の魂の世界と。ジュニヤーナ・ヨーガの世界と。直観の世界と。縁覚の世界と。声聞の世界は、マハー・ムドラーの世界と。このジュニヤーナ・ヨーガ、マハー・ムドラーの成就の為には、4の世界のラージャ・ヨーガ、5の世界のクンダリニー・ヨーガの成就が必要です。生命エネルギーを、ムーラーダーラ・チャクラ、スワーディシュターナ・チャクラから、マニプーラ・チャクラに上げなければ、ジュニヤーナ・ヨーガ、マハー・ムドラーの修行は出来ないから。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。
仏陀釈尊の生存時には、仏陀釈尊の言霊によって、出家修行者は、浄化された。動物的生存と。東洋と。亜細亜と。しかし、日本国も、黒船来航後の明治維新以後、西洋化、欧米化されたので、動物的生存状態ではない。だから、言霊によって、普通の方々は、浄化されない。言霊を聴く能力が無いから。行間を読む能力が無いから。本を感じる能力が無いから。時空を感じる能力が無いから。これは、超能力ではありません。普通の人間の能力です。人間は、霊止(ひと)だから、本来、霊を感じる能力が有るのです。これが本来の人間です。学者は、学問は、この能力を駆使して、真理の探究を続けていると。同様に、芸術家は美の探究を、ボランティアは善の探究を続けています。これが、6の世界です。
縁覚 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 縁覚(えんがく、サンスクリット:pratyekabuddha、パーリ語:paccekabuddha)とは、仏教やジャイナ教において、師なくして独自にさとりを開いた人をいう。旧訳ではサンスクリット原語あるいはその俗語形からの音写で、辟支仏(びゃくしぶつ)と訳す。また独覚とも漢訳される。
仏教では、十二因縁を観じて理法をさとり、あるいはさまざまな外縁によってさとるゆえに縁覚という。独覚は、仲間をつくって修行する部行独覚と、麒麟の一角の如く独りで道を得る麟角喩独覚とに分ける。大乗仏教ではこの立場を自己中心的なものと考え、声聞とともに二乗と呼んで下に見る。
特に天台宗では、仏の世で十二因縁を観じて覚ったものを「縁覚」、無仏の世で飛花落葉などの外縁を観じて覚ったものを「独覚」と区分している。
関連項目 声聞 二乗 菩薩
カテゴリ:仏教用語、僧、天台系仏教
最終更新 2012年5月31日 (木) 17:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
※わたくしの見解は、声聞、縁覚の覚りなくして、菩薩、仏の世界は開かないと。大乗仏教は観念的魔界と。屁理屈。真理ではない。人間は、自分の実感を生きるから。観念は絶対に生きないから。理想という絵に描いた餅は食べる事が出来ないから。武士は食わずとも高楊枝は生きない。武士ではないから。だから、大乗仏教は成り立たない。いつの間にか、魔界に支配されてしまう。別の形の物欲に支配されてしまう。覚っていないから、当然の事です。共産主義に、納得出来ないから。支払いした分、支払いされなければ、納得出来ない。だから、大乗仏教は魔界に必ず支配されてしまう。物々交換が成り立たない労働、必ず、損させられた分、悪魔化するのです。これが、わたくしの見解です。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。
私が、わたくしを使う時は、我々の意識を言っています。国連の意識と。連合軍の意識と。人類の意識と。人類の意識と致して、ソ連の社会主義実験は失敗したと。社会主義では、モチベーションの維持が出来なかったと。即ち、皆、個体で有ったという事です。皆、個体だから、他の個体の利益と、自分の個体の利益は別だったという事でした。即ち、社会主義は成り立たなかったと。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。
声聞 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 声聞 (しょうもん、サンスクリット:Zraavaka)は、仏教において「教えを聴聞する者」の意で、初期経典では出家・在家ともに用いられる。後になると出家の修行僧だけを意味した。
声聞には、上から阿羅漢果(応供)・阿那含果(不還)・斯陀含果(一来)・須陀洹果(預流)の4つの目標(「向」)と、それに応じた4つの結果(「果」)があるとされ、これを四向四果という。
大乗仏教の立場からは、声聞は、主に四諦を修習し、自己の解脱のみを得ることに専念し、利他の行を欠いた、阿羅漢を目指す修行者であるとして、小乗と貶称される。
四大声聞 『法華経』授記品において、釈尊から未来の成仏の記別にあずかった4人の大弟子を総称して四大声聞という。その4人とは次のとおり。
摩訶迦葉(まかかしょう) 須菩提(しゅぼだい) 迦旃延(かせんねん) 目連(もくれん)
関連項目 小乗仏教 四向四果 縁覚 二乗 菩薩
カテゴリ:僧、仏教用語
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最終更新 2012年5月14日 (月) 21:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
※わたくしは、はっきり言う。欲六界に利他行は無い。カルマの法則、作用反作用の法則しか無い。即ち、阿羅漢しか、利他行は出来ない。大乗仏教は間違っている。菩薩、如来は、物質的、肉体的酬いは得ない。その分、菩薩の境地、如来の境地を得る。これが、菩薩、如来です。即ち、利他行とは、他の存在に、物質的、肉体的利益を与える事ではない。それは、カルマの法則、作用反作用の法則によって、他からの物質的、肉体的利益と成って、返ってくるのです。これを利他行とは言わない。菩薩、如来とは、縁の下の力持ちと。陰の存在として、世の中の為に成っていると。物質的、肉体的酬いを得ないで。これが、菩薩、如来の修行なのです。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。
物質的、肉体的酬いと致して返ってきたものは、菩薩の境地、如来の境地には成らない。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。
菩薩行、如来行は、菩薩と致しての仕事能力、如来と致しての仕事能力の増大と致して、返ってくる。ますます、為に働けるように。物質的利益、肉体的利益と致しては、返って来ない。これが、菩薩、如来と、欲六界の天界との違いです。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。
応供 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 応供(おうぐ;サンスクリット語 arhat)とは、仏教を信仰し修行する比丘の中でも、供養を受けるにふさわしい者という意味。中国仏教において用いられた音写語は阿羅漢(あらかん)である。釈迦在世時代のインドでは、宗教的に最高の境地に達した聖者をこのように呼んだ。如来の別号である十号の一つにあげられており、仏そのものを指す呼び名である。
上座部仏教などの部派仏教でも、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者・声聞(しょうもん)の最高位と位置づけられている。一方、成仏(仏陀に成る)を標榜する大乗仏教では、「小乗仏教(部派仏教への蔑称)を実践しても阿羅漢止まりである」として軽んじる傾向が強い。
なお、同じ大乗でも、釈迦の教説としては最終最後とされる大般涅槃経の四依品では、人四依の一人として、応供、すなわち阿羅漢果の声聞は、実は菩薩の十地の境涯と何らかわらず、仏道を成ぜんと欲せば、いつでも仏と成ることのできる人とされ、実は如来仏と何ら区別するものではないと判じて、長年にわたる小大乗の論争に決着をつけようとしている。
関連項目 阿羅漢
カテゴリ:如来、僧、仏教の称号・役職
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最終更新 2012年6月26日 (火) 17:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
不還 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 不還 (ふげん、anaagaamin (sanskrit))は、旧訳では音写して「阿那含」(あなごん)という。もはや人間界にもどることなく、天界以上の階位に上って悟りに至る者のこと。四向四果の一つである。
部派仏教では五下分結(下位の世界に結びつける五つの煩悩)を断じた者が得る位であったが、『倶舎論 』では、欲界の修惑(情的煩悩)をすべて断ち切ったため、もはや欲界に戻らずに悟りに至るとする。不還向(ふげんこう)とは,前段の一来果を得た者が、次の不還果を得ようとして残余の修惑三品を断ちつつある位のこと。
カテゴリ:原始仏教
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最終更新 2012年5月27日 (日) 04:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
一来 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 一来(いちらい、サンスクリット:sakRd-aagaamin、旧訳音写:斯陀含〈しだごん〉)は、一度 (sakRd) 天界に生れ再び人間界に戻ってさとりに入る者のことで、四向四果の一。
原始仏教では、有身見(うしんけん)・戒禁取見(かいごんじゅけん)・疑の三結を断ち、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒が薄くなった者。『倶舎論』では、一来向は欲界の修惑(しゅわく、情的煩悩)の前三品または四品を断じた者とし、人界の家と天界の家とを往復するから「家家」(けけ)と呼ぶ。一来果は欲界の前六品を断じた位である。
関連項目 四向四果
カテゴリ:原始仏教
最終更新 2012年6月26日 (火) 17:00 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
預流 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 預流(よる、サンスクリット:srota-aapanna 、音写:須陀洹〈しゅだおん〉)とは、無漏(むろ)の聖者の流れに入った者であり、四向四果の最初の段階。
原始仏教では、有身見(うしんけん)・戒禁取見(かいごんじゅけん)・疑の三結を断じた者が得る位であった。のち、『倶舎論』では、見道において見惑の八十八随眠(ずいめん)煩悩を断った者が得るとしている。
この位に達すると退転することなく、最大でも7回人間界と天界を往来するだけで悟りに達する。
カテゴリ:原始仏教
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最終更新 2012年6月30日 (土) 15:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
※あと、阿羅漢と天使見習い、菩薩と天使、如来と大天使は、同じ位と。
天使というのは、遺伝的条件、家系的条件が悪い場合の選択肢と。人間に仕える選択をした方々と。白人の考え方と。その現実責任を取っているのは、黒人と。これが、白人と黒人の責任分担と。))) |