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皇紀2665年度。
 
2013/05/20 2:18:27|その他
橋下徹、皇太子、愛子様
橋下徹、皇太子、愛子様

 この橋下徹は、哀川翔眼鏡をかけて、髪を染めて、弁護士兼タレント活動をしていた時の橋下徹。徳光和夫も、哀川翔眼鏡をかけている。あと、どこかの県知事も、哀川翔眼鏡をかけている。チンピラ?。

 チンピラは格好だけ。ヤクザはどす黒い。身体がどす黒く成る程、悪事を重ねると、ヤクザに成る。

 この橋下徹、哀川翔、徳光和夫が、一。

 皇太子・イエスキリスト・神の子が、二。

 愛子様・息子・神の孫が、三。

 動物のヒトが、四。

 ワイン、カクテル、高層ビル、夜景、ネオンが、五。

 六は、身体障害。褒章。

褒章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 褒章(ほうしょう)とは、社会や公共の福祉、文化などに貢献した者を顕彰する日本の栄典の一つ。対象となる事績により、紅綬褒章、緑綬褒章、黄綬褒章、紫綬褒章、藍綬褒章、紺綬褒章の6種類がある。

 英訳名は、褒章全体が“Medals of Honour”であり、各章はそれぞれ、“Medal with Red Ribbon”、“Medal with Green Ribbon”、“Medal with Yellow Ribbon”、“Medal with Purple Ribbon”、“Medal with Blue Ribbon”、“Medal with Dark Blue Ribbon”である[1]。

 日本政府による英訳では、勲章は“order”であり、褒章は記章(記念章及び従軍記章)と同様に“medal”とされている。欧米で日本の勲章、褒章及び記章に相当するものには、英語で“order”、“decoration”、“Cross”、“medal”と名付けられたものがある。しかし、日本と欧米ではこれら”勲章等”(勲章等着用規程(昭和39年4月28日総理府告示第16号)第1条)の分け方が異なっており、日本には無い“Cross”の扱いは区々であり[2]、“medal”と称されるものの一部は記章ではなく勲章とされることもある。一方、日本の法令上は、他国の褒章に相当するものは記章として扱われる(勲章等着用規程(昭和39年4月28日総理府告示第16号)第11条第1項4号)。

目次
1 沿革
2 概要
3 制式
4 褒章の種類
4.1 紅綬褒章
4.2 緑綬褒章
4.3 黄綬褒章
4.4 紫綬褒章
4.5 藍綬褒章
4.6 紺綬褒章
4.7 褒状
4.8 遺族追賞
5 根拠法令
6 関係官庁
7 その他の褒賞
8 脚注
9 参考資料
10 関連項目
11 外部リンク

沿革
1875年(明治8年)7月 - 太政官達第121号において、篤行者・奇特者へ賞与を与えることが定められる。
1880年(明治13年) - 賞勲局から褒章制度制定について上申される。
1881年、明治14年12月7日太政官布告第63号「褒章条例」を制定。当初は紅綬褒章、緑綬褒章、藍綬褒章の3種であった。これにより、褒章制度が確立した。1882年(明治15年)1月1日、施行。
1887年、明治20年勅令第16号「黄綬褒章臨時制定ノ件」を以って黄綬褒章(旧制度)が制定された。
1918年、大正7年9月19日勅令第349号(褒章条例中改正ノ件)により紺綬褒章が制定された。
1921年、大正10年4月26日勅令第147号及び第148号により、褒章の略綬が制定された。
1927年、昭和2年2月1日勅令第6号により、同じ褒章を5回以上受章した者のための金色飾版が制定された。
1947年、昭和22年5月3日政令第4号(「内閣官制の廃止等に関する政令」)により明治20年勅令第16号が廃止されたのに伴い(同第1条)、黄綬褒章が廃止された。
1955年、昭和30年1月22日政令第7号の改正により紫綬褒章及び新規の黄綬褒章が制定された。
1978年(昭和53年) - 春以降、黄綬褒章・紫綬褒章・藍綬褒章は毎年4月29日及び11月3日に授与することとした。
2002年、平成14年8月12日政令第278号(平成15年栄典制度改正に伴う改正)により、緑綬褒章の授与対象を変更。また、褒章の制式の細目は内閣府令により別途定める旨が規定された(条例第9条)。
2003年、同改正により新設された条例第9条に基づく平成15年5月1日内閣府令第55号(褒章の制式及び形状を定める内閣府令)により、新しい褒章のデザインが定められた。
2003年、平成15年5月20日閣議決定により褒章の授与要件が緩和され、対象が広がった。

概要
 褒章は天皇が授与する栄典である。法的には、戦前は大日本帝国憲法第15条の「其ノ他ノ榮典」であり、戦後は日本国憲法第第7条7号に該当する国事行為(同7条柱書き)であることに基づく。詳細は褒章条例(明治14年太政官布告第63号)により定められる。同条例1条によれば、紅綬褒章は「自己ノ危難ヲ顧ミス人命ノ救助ニ尽力シタル者」、緑綬褒章は「自ラ進デ社会ニ奉仕スル活動ニ従事シ徳行顕著ナル者」、黄綬褒章は「業務ニ精励シ衆民ノ模範タルベキ者」、紫綬褒章は「学術芸術上ノ発明改良創作ニ関シ事績著明ナル者」、藍綬褒章は「教育衛生慈善防疫ノ事業、学校病院ノ建設、道路河渠堤防橋梁ノ修築、田野ノ墾闢、森林ノ栽培、水産ノ繁殖、農商工業ノ発達ニ関シ公衆ノ利益ヲ興シ成績著明ナル者又ハ公同ノ事務ニ勤勉シ労効顕著ナル者」、紺綬褒章は「公益ノ為私財ヲ寄附シ功績顕著ナル者」にそれぞれ授与される。勲章は長年にわたる功績を対象とする側面が強く、人命救助のように一過性であっても功績顕著な行いは叙勲の対象となりにくい。これに対して褒章は勲章(叙勲)の対象とはなりにくいが、顕著な功績と認められるものに対しても授与される。

 授与された褒章は、授与された本人に限り、終身これを佩用(着用)することができる(条例4条)。褒章を佩用するときは、「左肋ノ辺」(左胸のあたり)に着ける(条例8条)。ただし授与された者が、懲役刑・禁錮刑・死刑に処された場合、褒章は没収され、褒章授与者としての地位は褫奪される(勲章褫奪令第1条・第6条)。なお、褒章は独立行政法人である造幣局が製造している(独立行政法人造幣局法3条2項、11条1項4号)。

 褒章条例により表彰されるべき者が団体である場合には、褒状が授与される(条例2条)。なお、個人に授与される場合にも褒章(メダル)とともに褒章の記が授与される。褒状、褒章の記ともに、受章者・表彰者の氏名または名称、受章・表彰理由、授与・表彰の年月日と記号番号、天皇の名で授与・表彰する旨が記されて国璽がおされ、内閣総理大臣と内閣府賞勲局長が署名・押印する[3]。日本の法令・行政上の扱いでは、褒章とは「○綬褒章」の名称をもつ褒章のみを指す。褒状、賞杯を含めるときは「褒賞」の表現を用いる(例: 受章・受賞者を掲載する官報の欄名)。

 褒章の授与とともに、金銀木杯(賞杯)を授与することもある(条例5条)。特に、公益のために私財を寄附した者に授与される紺綬褒章を授与する場合には、あわせて授与される木杯の基準がその寄附額によって定められている[4]。また、本条例によって表彰されるべき者が死亡したときは、金銀木杯または褒状をその遺族に授与し、これを遺族追賞という(条例6条)。

 既に褒章を授与されている者が再度同様の理由によって褒章を授与されるべきときは、その都度銀色の飾版のみを1個授与され、既に授与されている褒章の綬(リボン)に附加して標識とする(条例第3条第1項)。この飾版が5個(5回の受章)以上に達したときは、5個ごとに金色の飾版を1個と引き替える(同条2項)。

 紅綬褒章・緑綬褒章・黄綬褒章・紫綬褒章・藍綬褒章については、勲章と同様、毎年4月29日(昭和の日)及び11月3日(文化の日)に発令される。各回、約800名に授与され、それぞれ「春の褒章」「秋の褒章」、あわせて「春秋褒章」と呼ばれている。紺綬褒章は、表彰されるべき事績の生じた都度、各府省等の推薦に基づき審査をし授与を行うこととされ、毎月末の閣議で決定される。春秋褒章の授与は、衆議院議長、参議院議長、国立国会図書館長、最高裁判所長官、内閣総理大臣、各省大臣、会計検査院長、人事院総裁、宮内庁長官及び内閣府に置かれる外局の長が、候補者を内閣総理大臣に推薦して行う[5]。内閣総理大臣は、推薦された候補者について審査を行い、褒章の授与について閣議の決定を求める。褒章の伝達は、「内閣総理大臣の命を受け、内閣府賞勲局長が所管大臣に伝達し、所管大臣が適宜受章者に伝達する。」と定められている[6]。褒章の授与は、官報に掲載される。

制式
 現行の褒章、飾版及び略綬褒章の制式については褒章条例第7条に規定されており、形状等の細目は内閣府令によって定めるとされている(同9条)。そして、現行の細目は「褒章の制式及び形状を定める内閣府令」(平成15年5月1日内閣府令第55号)で規定されている。一方、旧黄綬褒章の制式は「黄綬褒章臨時制定ノ件」第3条により規定されていた。

 褒章はメダル本体の“章”、章を吊るして衣服に取り付けるための“綬”(リボン)、章と綬を繋ぐ“鈕”、及び綬に取り付ける“飾版”から成る。但し、旧黄綬褒章には鈕と飾版は無く、環により章と綬が繋がれている。また、常服時に着用するための略綬も制定されている。


 銀製。桜花紋円形で中心に「褒章」の二字が置かれている。平成15年改正前は直径九分だったが、改正により30ミリメートルとなった。また、表側の「褒章」の周囲が金色の円形で囲まれるようになった。裏側は紺綬褒章の場合を除いて「賜」の文字と氏名が記される。改正前の条例では、図の備考により、後述の金色飾版が授与される場合は引替られた銀色飾版の授与年月日も記すとされていたが、改正により図と共に削除された。旧黄綬褒章は金及び銀の円形で、表面は上から菊花紋章、横書きの「褒章」の文字、大砲の図が配され、裏面には「賛成海防事業」の字が鋳出されていた。


銀製。


 綬の色は褒章の種類に応じて、紅、緑、黄、紫、藍、紺と変わる。綬の幅は当初一寸とされていたが、改正により36ミリメートルとなっている。旧黄綬褒章は瑞宝章のように逆三角形に折られていた。

飾版
 銀製で表面に授与年月日を記す。2回目以降は飾版のみが授与され、それを綬に附加する。つまり、2回受章した者は2個の飾版を付けることになる。5個の銀色飾版と引き替えられる金色飾版は、昭和2年2月1日勅令第6号の改正により制定されたもので、表面は桜模様で飾られている。紺綬褒章については多額の私財を公共の目的のために寄付した場合に授与される(金額・価額により貢献度が可視的である)ため、額が大きい場合は賞杯が同時に授与される。つまり初授の場合、一定の額以内の貢献であれば紺綬褒章のみ、それ以上の場合は紺綬褒章と賞杯が授与され2回目以降も基本的には飾版のみ、それ以上の場合は飾版と賞杯が授与される。

略綬
 「褒章条例」の大正10年4月26日勅令第147号及び「黄綬褒章臨時制定ノ件」の大正10年4月26日第148号による改正により、蝶型スティックピン式のものが制定されていたが、平成15年内閣府令により勲章と同様の円形のものに改められた。色は褒章の種類により紅緑黄紫藍紺の六色とする。直径は7ミリメートル。
なお、褒章と同一又は類似する商標については商標登録を受けることができない(商標法4条1項1号)。

褒章(平成15年改訂前)
平成15年改訂前の略綬
旧黄綬褒章

褒章の種類
紅綬褒章
 紅綬こうじゅほうしょう。「自己の危難を顧みず人命の救助に尽力したる者」に授与される[7]。

 1882年(明治15年)、青森県の海岸で暴風波浪により難破した漁船乗組員を救助した工藤仁次郎が受章第1号である。戦後は年々受章者が減少していた。

 2003年(平成15年)の栄典制度改正に伴い受章機会の拡大が図られ、2004年(平成16年)春の褒章では16年ぶりに紅綬褒章が3名に授与された。2005年(平成17年)春の褒章では落水車からの人命救助により15歳の少年に贈られた(未成年者で初の受章)。また同年秋の褒章では、JR福知山線脱線事故で救助活動に当たった日本スピンドル製造や二次災害を防いだ主婦に贈られた。

 2011年(平成23年)秋の褒章では、川で溺れていた男児を協力して救助した13歳の少年に贈られた。前述の、2005年の受章者を下回り、歴代最年少の受章者となった。

緑綬褒章
 緑綬りょくじゅほうしょう。「自ら進んで社会に奉仕する活動に従事し徳行顕著なる者」に授与される。

 当初は「孝子・順孫・節婦・義僕の徳行卓絶なる者又は実業に精励し衆民の模範たるべき者」に授与することとされていた。1882年(明治15年)、青森県で数十年にわたり母へ孝養を尽くした外崎専四郎が受章第1号である。1950年(昭和25年)12月25日の受章を最後に一旦途絶えた。これは1955年(昭和30年)の栄典制度改正で「実業に精励し―」の部分が黄綬褒章として独立し対象が狭まったこと、「孝子・順孫・節婦」の部分が家制度と家長を否定する日本国憲法の趣旨に合わないことによる。

 そのため、平成15年栄典制度改正では受章機会・選考基準の見直しが図られ、平成14年8月12日政令第278号改正では褒章条例第1条中の緑綬褒章に関する部分が「自ラ進デ社会ニ奉仕スル活動ニ従事シ徳行顕著ナル者ニ賜フモノトス」と改められた。

 これにより、社会福祉分野やボランティア活動などで顕著な実績のある個人等に授与することとなった。そして、翌2004年(平成16年)春の褒章では半世紀ぶりに緑綬褒章が26名に授与された。

 2008年(平成20年)には、長年の受刑者更生支援等奉仕者として、芸能人で初めて杉良太郎が受章した。芸歴の長い俳優は紫綬褒章の対象になることが多く、杉も翌2009年(平成21年)に紫綬褒章を授与された。

黄綬褒章
 黄綬おうじゅほうしょう。「業務に精励し衆民の模範たるべき者」に授与される。

 1887年(明治20年)、黄綬褒章臨時制定ノ件(明治20年勅令第16号)により、「私財ヲ献納シ防海ノ事業ヲ賛成スルモノニ授与スル」(沿岸防衛事業への私財提供者)と定められた。このときの受章第1号は、中井新右衛門。その後数年間は授章されたものの、長らく途絶えた。この勅令は、1947年(昭和22年)の内閣官制の廃止等に関する政令(昭和22年政令第4号)により一旦廃止された。

 1955年(昭和30年)の栄典制度改正により、授与する理由をあらためて再度制定。同年、多年にわたり水稲農作技術の向上に努力した北海道の天崎正太郎が新たな受章第1号である。改正されてからは、毎年500人から600人が受章している。2003年(平成15年)の栄典制度改正では、「第一線で業務に精励している者で、他の模範となるような技術や事績を有する者を対象とし、受章者数の増加を図る」こととされた。

紫綬褒章
 詳細は「紫綬褒章」を参照

 紫綬しじゅほうしょう。「学術芸術上の発明改良創作に関し事績著明なる者」に授与される。

 長年研究に従事した学者や技術開発・発明に尽くした技術者のほか、長年にわたって活躍する芸能人や芸術家、オリンピックのメダリストに授与される。有名人が多数受章し、伝達式も東京都内のホテルで盛大に行われるため、報道等において大きく扱われる。

藍綬褒章
 藍綬らんじゅほうしょう。「教育衛生慈善防疫の事業、学校病院の建設、道路河渠堤防橋梁の修築、田野の墾闢(こんぺき、開墾)、森林の栽培、水産の繁殖、農商工業の発達に関し公衆の利益を興し成績著明なる者又は公同の事務に勤勉し労効顕著なる者」に授与される。

 1882年(明治15年)、灌漑用水を開通させて荒野を農地に変え村民生活の向上に貢献した大阪府の石田長蔵・久保田伊平が受章第1号、第2号で、第3号〜第7号は北海道函館の常野正義・渡辺熊四郎・平田兵五郎・今井市右衛門・平塚時蔵の5人ある。戦後は毎年600人から1000人が受章している。2003年(平成15年)の栄典制度改正では、「公衆の利益を興した者に対する藍綬褒章の選考に当たっては、他の模範となるような優れた業績が認められる者を対象とする。また従来公同の事務とされている分野について運用の見直しを行い、勲章の対象との関係を整理する」こととされた。授与対象が紫綬褒章と一部重なっているが、本章の主な対象は技術者である。

紺綬褒章
 紺綬こんじゅほうしょう。「公益のため私財を寄附し功績顕著なる者」に授与される。

 1919年(大正8年)、恩賜財団済生会へ5万円[8]を寄付した小野光景が受章第1号である。紺綬褒章は他の褒章のように受章機会が春秋のみに限られず、事由の発生に合わせて毎月末にまとめられ閣議で決定され発令される[4]。現在は公的機関や公益法人などへの500万円以上の寄付をした個人、1000万円以上の寄付をした団体が主な対象となる(受けた団体から所管官庁宛てに上申がされる)。寄付が多額に上る場合には、併せて賞杯(桐紋付きの盃)が授与される。

褒状
 褒章を授与される理由の事績を残した者が団体である場合には、自然人ではない団体がメダルを着けることは出来ないので、受章者名を法人・団体とした賞状「褒状」が授与される。褒状には各褒章と同様に授与の理由が記されているが、頭書には「緑綬」「紫綬」等の区分は冠されずすべて単に「褒状」となる。

遺族追賞
 褒章(紺綬褒章を除く)の授章対象者が死亡した場合は、遺族へ銀杯か木杯か褒状が授与される。これを遺族追賞という。叙勲対象者でもあるときは、遺族追賞ではなく死亡叙勲が行われることとなる。

根拠法令
日本国憲法第7条7号(栄典の授与が天皇の国事行為と定められている)
明治十四年太政官布告第六十三号(褒章条例)(明治十四年十二月七日太政官布告第六十三号)
褒章条例取扱手続(明治27年閣令第1号)
勲章、記章、褒章等の授与及び伝達式例(昭和38年7月12日閣議決定)
褒章の制式及び形状を定める内閣府令(平成十五年五月一日内閣府令第五十五号)
 なお、褒章について定めた法律は存在しない。1952年(昭和27年)、褒章を含め栄典に関する事項は法律で定めるべきとの解釈の下、栄典法案が国会に提出されたことがあったが成立しなかった。そのため政府は褒章条例を政令により改正することで戦後の褒章制度の整備をするに至ったが、このような措置に対しては日本国憲法下では褒章は法律対象事項であり法律による委任もなしに政令で規定することは失当ではないかとする見解が憲法学者の間では有力である[要出典]。

関係官庁
 栄典を所管するのは内閣府であり、事務執行機関として賞勲局が置かれている。元は1876年(明治9年)、太政官に新設された賞勲局が始まりであり初代長官には伊藤博文が就任、代々三条実美や西園寺公望らがトップに就く要職であった。戦後は総理府の一部局となった。

 褒章の選考手続きについては各都道府県・各関係団体から具申を受けた各省庁大臣が賞勲局へ褒章候補者を推薦し、慎重な審査の上、閣議に請議されて決定されている。

その他の褒賞
 その他、都道府県では知事による表彰として褒賞を授与する制度があるが、一般にこれを知事褒章と通称することがある。特に東京都では、東京都知事表彰として、功労ある消防団員に対する消防褒賞があり記念章が授与されることから、しばしば公私を問わずこれらを知事褒章、消防褒章と通称されることが多い。ただし、それら都道府県の「褒章」は正確には「褒章」ではなく「褒賞」であり、その位置付けは国の栄典ではなく東京都の表彰である。授与される記章も記念章であり、国の褒章とは異なる。

脚注
1.^ 勲章及び褒章の英訳名(内閣府ホームページ)
2.^ 例:君塚(記章説)と小川(勲章説)の著書に於ける扱い。
3.^ 2003年(平成15年)の栄典制度改革の前には、褒章は内閣の名で授与されたため、褒章の記には内閣の印がおされた。
4.^ a b 紺綬褒章等の授与基準について、昭和55年11月28日閣議決定、内閣府賞勲局。
5.^ 褒章受章者の選考手続について、平成15年5月20日閣議了解、内閣府賞勲局。
6.^ 勲章、記章、褒章等の授与及び伝達式例、昭和38年7月12日閣議決定、内閣府賞勲局。
7.^ なお、救助活動を行っても、力及ばず要救助者が落命した場合には授与されない。また公務執行中の事であっても贈られない。
8.^ 現在の価値で1000万円相当。換算基準は「罰金等臨時措置法」の規定によった。

参考資料
岩倉規夫、藤樫準二 『日本の勲章-日本の表彰制度-』 第一法規出版、1965年1月。
総理府賞勲局監修 『勲章』 毎日新聞社、1976年。
佐藤正紀 『勲章と褒章』 時事画報社、編集協力: 内閣府賞勲局、時事画報社、2007年12月。ISBN 978-4-915208-22-5。
小川賢治 『勲章の社会学』 晃洋書房、2009年3月。ISBN 978-4-7710-2039-9。
君塚直隆 『女王陛下のブルーリボン-ガーター勲章とイギリス外交-』 NTT出版、2004年。ISBN 4757140738。

関連項目
Category:緑綬褒章受章者
Category:黄綬褒章受章者
Category:紫綬褒章受章者
Category:藍綬褒章受章者
Category:紺綬褒章受章者
表彰
勲章
日本の栄典
勲章 (日本)
記章
栄章
記念章
位、勲章等ノ返上ノ請願ニ関スル件

外部リンク
日本の勲章・褒章 - 内閣府
褒章 - 中野文庫

カテゴリ: 日本の勲章、記章、栄典

隠しカテゴリ: 出典を必要とする記述のある記事/2011年11月

最終更新 2013年3月15日 (金) 07:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。







2013/05/20 0:23:59|その他
一応、書いて置きます
一応、書いて置きます

 一応、書いて置きます

 一応、書いて置きます。
 乳癌の愛について。
 私のジュニヤーナ・ヨーガの分析では、その女性の命を護る為に、乳癌は生じる。
 嫌なら、哺乳類を食べない事です。
 哺乳類を食べなければ、哺乳類の上司の責任を取らなくていいから。
 母乳を上げるという哺乳類の地位をやりたくないならば、哺乳類を食べない、哺乳類の上司をやらないという事です。
 以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。
 母乳で育てた子と、そうでない子の違いは、親は知っています。
 これ、昭和の普通。

 子への愛情

 子への愛情。
 母乳で育てられた子は親を背負わされた。
 これが子への愛情。
 子にしたから。
 親が自分を背負わせなければ、子にされない。
 即ち、子は支払いが出来ない。
 これが哺乳類。
 以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。
 親子関係はこれでいいと私は思っています。
 親が利益でない家、子は地獄。
 反抗し続けて、親を背負い続けなければならないから。
 これが娘。







2013/05/19 19:25:11|その他
報告
報告

 MNスポーツアナがロボットを、自己判断・自己選択・自己責任しました。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。

 今、ヤンキー・暴走族が、うるさく、走り抜けていきました。ヤンキー(中学生の時に婚前セックスをした雄の方々)が、現実を背負わされたから。中学生の時に、婚前セックスをした方々は、日本国民。ヤンキー・不良。親の上の地位だから、小学生の時に、担任した。だから、中学生の時に、婚前セックスをした。だから、不良と言われる。ヤンキー。親の上の地位だから、凄まじい反抗をする。親を扱きに扱く。親が上の地位に成るまで。これが、ヤンキー・不良です。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。

 具体的に書きます。MNスポーツアナには、三女・黒人・バラク・オバマ・KTアナの地位が残されていた。宮根誠司と。宮根誠司は、小林麻央氏と、市川海老蔵氏の二太郎と。一姫は、ルーシェルAKアナ。この選択肢が、トリンドル玲奈氏と結婚する事だった。金髪白人女性と結婚する事だった。もしくは、仏蘭西白人女性と交際した山下智久氏の下の地位の選択も出来た。AY氏と社内結婚したRIアナの下の地位の選択も出来た。

 大島美幸(同期のYOアナの現実)が、24時間テレビチャリティマラソンランナーに成った。この下の地位しか、勿論、無かった。YOアナは、MNスポーツアナの本体で有るTOアナと一緒に、MCをしているから。MNスポーツアナは、大先輩のTOアナの勿論、下の地位しか出来ない。

 しかし、この選択もしなかったので、YOアナの上の地位、即ち、ロボットに成ってしまった。信じられない。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。

 ロボット生活とはどういう生活なのかまでは、私は分からない。童貞だから。インターネットの画像、映像生活とはどういう生活なのか?。音声は、バラク・オバマです。熱と。肉体と。画像、映像生活は、もしかしたら、テレポーテーション。宇宙戦艦ヤマトのアニメで、部下が、立体映像のように、フェードアウトしていった場面・シーンを視ました。あれかな?。3D。統合失調症の幻覚妄想のようなもの?。脳内刺激だけ。現実は無い。私は、今、五十一歳一ヶ月強ですが、二十六歳の三月下旬から、人生の現実は有りません。動物のヒト生活しか有りません。人生の現実生活要らない。あっという間に死んでしまうから。スワーディシュターナ・チャクラ生活、五次元生活・芸能生活は、あっという間に死んでしまう。天国から、地獄に墜落する。だから、四次元生活・ムーラーダーラ・チャクラ生活しかしない。する必要を感じない。ワイン生活、カクテル生活必要無い。私には。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。

 両足両手生活。自分の両足で歩く。自分の両手で作業をする。

 しかし、婚前セックスを悔い改めない場合、自分の右足が父、自分の左足が母、自分の右手が息子、自分の左手が娘を背負わされるとんでもない人生生活に成る。おそらく。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。







2013/05/19 2:00:23|その他
仕事はぶざま、最低、最悪、お客様の奴隷
仕事はぶざま、最低、最悪、お客様の奴隷

 ※アレフデイリーメールH250518土への返信を、自身の為にさせて下さい。

 私は、天の悪業を自己満足と思っています。自己満足が、地獄の因と。だから、自己満足する事をやらない。

 私は、正義を阿修羅の悪業と思っています。正義が、餓鬼の因と。だから、現実を生きる。現実は正義ではないから。現実は善悪両方。常に。弱肉強食。過半数。強い者は、弱い者を喰う。あと、民主主義は多数決。

 私は、遊び・楽しみを動物の悪業と思っています。遊び・楽しみが動物の因と。だから、遊ばない、楽しまない。情を持てる存在との信頼関係を致させ続けさせていただき続ける。情を持てない存在とは信頼関係無い。踏まれているから。背負わされているから。これが、私の修行方法です。情を持てる存在との信頼関係を致させ続けさせていただき続ける。自分が存在出来たという事は、自分を存在致させて下さった存在がいたからと。

 タイガーマスクは、間違っている。虎の穴が、自分をプロレスで稼げるように致させて下さった。だから、虎の穴へのファイトマネーの半額という上納金を納め続けるのは、当然。偉そうな事をしてはいけない。自分は偉い存在ではないから。天の自己満足&阿修羅の正義は、自分を滅ぼすと。過分な欲望。

タイガーマスク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あらすじ
 孤児院「ちびっこハウス」の伊達直人は動物園の虎の檻の前でケンカをしたのがきっかけで、悪役レスラー養成機関「虎の穴」にスカウトされる。

 虎の穴での殺人トレーニングをこなす日々の中で、自分と同じような生い立ちを持つ孤児たちに、同じような苦しみを味わわせたくないという想いを抱くようになり、虎の穴を卒業。
 悪役覆面レスラー「タイガーマスク」としてプロレスデビューをしてからは、収入の一部を孤児院へ寄付するようになった。当初は虎の穴へのファイトマネーの半額という上納金は支払った上で、自分の手取り分の範囲内での援助を考えていたが、自分の出身施設である孤児院「ちびっこハウス」の窮状を知り、虎の穴へ納める分まで寄付せざるを得なくなる。
 虎の穴はタイガーを裏切り者とみなし、タイガーを倒すための刺客を次々と送って来る。

 同じ裏切り者となるなら、せめて後輩となる「ちびっ子ハウス」の子供たちに恥じない戦いをしたいと、悪役からフェアプレーで戦う正統派スタイルへ転向。

 ※よく分かりませんが、もしかして、ちびっこハウスのお姉さんと恋仲に成ったのかな?。それで、格好いい事をして、良く思われたく成ったのかな?。それで、無理をしたと。しかし、その恋が叶う未来は絶対に来ない。恋は絶対に叶わない。欲だから。現実は欲ではないから。

 あと、仕事はぶざま。最低、最悪、お客様の奴隷。これが普通、当然。今、コフィー・アッタ・アナンの写真の目が光りました。

 以上、自身の為に、返信させて下さい。

 以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。







2013/05/19 0:22:11|その他
臥薪嘗胆、切磋琢磨、精進努力、積み重ね、蓄積、智慧、叡智
臥薪嘗胆、切磋琢磨、精進努力、積み重ね、蓄積、智慧、叡智

 ※これが家系の維持で有り、国家の維持と。島国ではない大陸の国家は、お金ではなくて、金銀、宝石等を所持しているそう。大陸の国家は、強国に滅ぼされ続けたから。日本国には、そういう感覚が無いかな?。戦国時代にも、大義名分が有ったのかな?。強者が支配するという意識ではなかったような。大陸の記憶と異なると。日本人には、統一による平和の創造という大義名分が有ったようです。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。

 この大志の本源は誰なのか?。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。

第二次世界大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
影響
総括
 ヤルタ会談における連合国首脳。いすに座った3人の左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン。

 詳細は「第二次世界大戦の影響」を参照

 第二次世界大戦の結果、ファシスト・イタリアが倒れ、ドイツと日本が降伏した。犠牲者数は世界数千万人に上るといわれている。

 敗戦国となった枢軸諸国にはアメリカ軍を中心とする戦勝国の軍隊が進駐した。敗戦国への処遇は第一次世界大戦の戦後処理の反省に基づいたものとなった。第一次世界大戦の戦後処理では、敗戦国ドイツの軍備解体が不徹底であったため、ドイツは再度第二次世界大戦を挑むことができた。しかし第二次世界大戦の戦後処理では敗戦国の軍備は徹底して解体され、敗戦国が他国に対して再度侵略行為を行うことは不可能となった。一方で、敗戦国への戦争賠償の要求よりも経済の再建が重視された。西ヨーロッパではマーシャル・プランが実施され、日本ではGHQによる政治経済体制の再構築が行われた。戦後、敗戦国は経済的には復興したが、軍事力においては限られた影響力しか持たない状態が続いている。

 ドイツ東部を含む東ヨーロッパおよび外蒙古・朝鮮半島北部などにはソ連軍が進駐した。ソ連は東ヨーロッパで戦前の政治指導者を粛清・追放し、代わって親ソ連の共産主義政権を樹立させた。中国でも中国共産党が国共内戦に勝利し、世界はアメリカ・西ヨーロッパ・日本を中心とする資本主義陣営と、ソビエト・東ヨーロッパ・中国を中心とする共産主義陣営とに再編された。この政治体制はヤルタ会談から名前を取ってヤルタ体制とも呼ばれる。そしてその後も二つの陣営は1990年代に至るまで冷戦と呼ばれる対立を続けた。

 第二次世界大戦の直接の原因となったドイツ東部国境外におけるドイツ系住民の処遇の問題は、最終的解決を見た。問題となっていた諸地域からドイツ系住民の大部分が追放されたことによってである。ドイツはヴェルサイユ条約で喪失した領土に加えて、中世以来の領土であった東プロイセンやシュレジエンなど(旧ドイツ東部領土)を喪失し、ドイツとポーランドとの国境はオーデル・ナイセ線に確定した。

 戦勝国となったアメリカ、イギリス、フランス、ソ連は(そして戦勝国の座を中華民国から引き継いだ中華人民共和国も)その後核兵器を装備するなど、軍事力においても列強であり続けた。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国の5か国を安全保障理事会の常任理事国として1945年10月24日、国際連合が創設された。国際連合は、勧告以上の具体的な執行力を持たず指導力の乏しかった国際連盟に代わって、経済、人権、医療、環境などから軍事、戦争に至るまで、複数の国にまたがる問題を解決・仲介する機関として、国際政治に関わっていくことになる。

 だが戦勝国も国力の疲弊にみまわれた。東南アジアでは、日本が占領した植民地をアメリカ、イギリス、フランス、オランダが奪回し、宗主国の地位を回復したが、一方で、日本軍占領下での独立意識の鼓舞による独立運動の激化、本国での植民地支配への批判の高まりといった状況が生じ、残留日本人がインドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争などに加わり近代戦術を指導するなどし、疲弊した宗主国にとって植民地帝国の維持は困難となった。また、中国における国共内戦では残留日本人が両陣営に参加するとともに共産軍の空軍設立に協力するなどした。その後1960年代までの間に、多くの植民地が独立を果たした。その意味においても、世界を一変させた戦争であった。

戦争裁判
 第一次世界大戦の戦後処理では敗戦国の戦争指導者の責任追及はうやむやにされたが、第二次世界大戦の戦後処理では、国際軍事裁判所条例に基づき、戦争犯罪人として逮捕された敗戦国の戦争指導者らの「共同謀議」、「平和に対する罪」、「戦時犯罪」、「人道に対する罪」などが追及された。ドイツに関してはニュルンベルク裁判が、日本に関しては極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷された。ドイツではヘルマン・ゲーリングら、ナチスの閣僚や党員だけでなく、軍人や関係者ら訴追され、ホロコーストや捕虜虐待などに関して、それぞれ絞首刑、終身禁固刑、20年の禁固、10年の禁固、無罪などの判決が下された。日本では戦争開始の罪、中国、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソビエト連邦への侵略行為を犯したとして、東條英機ら28名が戦犯として訴追され、絞首刑、終身禁固、20年の禁固、7年の禁固刑などの判決が下された。

 しかしその一方で、広島・長崎への原爆投下、ドレスデン大空襲、ハンブルク大空襲、東京大空襲・大阪大空襲など、民間人に対する無差別戦略爆撃は、連合国側の爆撃の方が枢軸国のものより遥かに大規模であり、また大戦初期のソ連によるポーランド[59]、フィンランドに対する侵略行為、大戦末期のベルリンの戦いなどのドイツ国内におけるソ連兵による虐殺、捕虜虐待、残虐行為や略奪行為、さらに中立条約を結んでいた日本や満洲国に対する侵攻・略奪行為、降伏後の日本の北方領土に対する侵攻・占拠-などについての責任追及は全く行われていない。 また、東欧諸国のドイツ系少数民族の追放やドイツ兵や日本兵のシベリア抑留などの事例について、国際法違反の戦争犯罪として戦勝国側の加害責任を訴える声も大きいものがあったが、この裁判では、戦勝国の行為については審理対象外とされたため、以上の事例すべてが不問とされている。

 ※これが、地球人類の基本です。聖書の主なる神は、蛇を罠に嵌めた。これ、世の中の普通。上司は皆、部下を罠に嵌めて、得しようとし続けているから。これ、普通です。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。

 聖書の主なる神が、蛇にやった事を、上司は皆、やっている。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。

 罠に嵌められた部下は、自分の部下に同じ事をする。これが、下請けへのつけ回し。これ、世の中の現実です。これが、世の中なので、この現実の下で、生きていくしか無い。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。

 この現実を変える事は不可能なので、この現実の下で、どう生きていくかという事です。以上、全存在界の全存在方へ、報告致しました。以上、謹んで、核之超神霊様に、御報告致しました。以上、天命界の全ての超神霊様に、御報告致しました。

 サンフランシスコ講和条約締結後は、終身禁固刑を受けた戦犯も釈放される一方、上官命令でやむをえず捕虜虐待を行った兵士が処刑されたりするなど、概して裁判が杜撰であったとする批判も存在する。さらに「人道に対する罪」という交戦時には無かった事後法によって裁くなど、刑事責任を問う裁判の根本的規則に反する疑義も指摘されている。

 敗戦国側では、それら連合軍の残虐な行為が全く裁かれなかった事を、戦勝国側のエゴ、勝者の敗者に対する復讐裁判として否定する意見が存在する。また、敗戦国側に対する戦争裁判を罪刑法定主義や法の不遡及に反することを理由として否定する意見もある。罪刑法定主義や法の不遡及を守りながら戦争犯罪を裁けるのか、あるいは裁くべきなのか、またその判決が世界に受け入れられるのか、人道罪を否定した場合、虐殺など戦争犯罪を止めることができるのか、など難問は多い。

 ※動物界に於いて、その食物連鎖の頂点にいる動物を裁く存在はいない。

新たに登場した兵器・戦術・技術
V2ロケット
一〇〇式司令部偵察機
 大戦末期に開発されたロケット戦闘機バッフェム Ba349a ナッター第一次世界大戦は工業力と人口が国力を、第二次世界大戦はこれに科学技術の差が明確に加わることとなった。戦争遂行のために資金・科学力が投入され、多くのものが長足の進歩を遂げた。

兵器
 電子兵器(レーダー、近接信管)やミサイル、ジェット機、四輪駆動車、核兵器などの技術が新たに登場した。電子兵器と4輪駆動車を除く3つは大戦の後期に登場したこともあって戦局に大きな影響を与えることはなかったが、レーダーは大戦初期のバトル・オブ・ブリテンあたりから本格的に登場し、その優劣が戦局を大きく左右した。また、アメリカやドイツ、日本などがこぞって開発を行った核兵器(原子爆弾)の完成とその利用は、日本の降伏を早めるなど大きな影響を与え、その影響は冷戦時代を通じ現代にも大きなものとなっている。なお、大戦中期に暗号解読と弾道計算のためにコンピュータが生み出された。
 第一次世界大戦時に本格的な実用化が進んだ航空機は、大戦直前に実用化されたドイツのメッサーシュミット Bf 109やイギリスのスーパーマリン スピットファイアのような近代的な全金属製戦闘機だけでなく、アブロ ランカスターやボーイング B-17・ボーイング B-29などの大型爆撃機、三菱 一〇〇式司令部偵察機といった高速戦略偵察機、メッサーシュミット Me 262といったジェット機やメッサーシュミット Me 163のロケット機など、さまざまな形で戦場に導入された。これらの航空機において導入されたさまざま技術は、戦後も軍用だけでなく民間でもさかんに使用されることになった。
 同じく第一次世界大戦に本格的な実用化が進んだ潜水艦は、ドイツのUボートや、零式小型水上偵察機を艦内に収容した日本の伊一五型潜水艦など、さらなる大型化と多機能化を見せることとなった。
 また、アメリカのダグラス DC-3やボーイング B-17に代表されるような、量産工場での大量生産を前提として設計された大型航空機の出現による機動性の向上は、ロジスティクス(兵站)をはじめ戦場における距離の概念を大きく変えることになった。また、九五式小型乗用車やジープなどの本格的な4輪駆動車の導入やバイクやサイドカーの導入など、地上においても機動性に重点をおいた兵器が数々登場し、その技術は広く民間にも浸透している。

戦術
 戦車やそれを補佐する急降下爆撃機を中心にした電撃戦(ドイツ)、航空母艦やその艦載機による機動部隊を中心とした海戦(日本)、4発エンジンを持った大型爆撃機による都市部への空襲(アメリカ、イギリス)や、V1やV2などの飛行爆弾・弾道ミサイルによる攻撃(ドイツ)、戦闘機を敵艦に突進させるなどとした自殺攻撃である特別攻撃隊(日本)、核兵器の使用(アメリカ)などは、第二次世界大戦中だけでなくその後の戦争戦術にも大きな影響を与えた。

技術・代用品の開発・製造
 絹に替わるものとしてナイロンが生まれたように、天然ゴムにかわる合成ゴムの開発製造、人造石油の開発・製造などが行われた。

評価
植民地戦争時代の終結
 第二次世界大戦は帝国主義や植民地主義が極限に達したことで勃発したが、結果的に帝国主義と植民地戦争時代を終結させ、植民地の解放を促す引き金となった。

 19世紀以来、イギリス、オランダ、フランス、アメリカ合衆国など連合国(白人諸国家)の植民地支配を受けて来たアジア諸地域は、第二次世界大戦序盤における日本軍の勝利と連合国軍の敗北(特にシンガポールの戦いにおけるイギリス軍の敗北)により、一時的に白人宗主国による支配から切り離された。これにより、非白人国が白人の宗主国を打倒した事実を、植民地支配下の住民が直接目にする事となった。これは、被植民地住民にとって、宗主国たる白人に対する劣等感を払拭する大きな力になったと、後年に中華民国総統の李登輝、マレーシアのマハティール・ビン・モハマド首相、インドネシアのスカルノ大統領など、当時の被植民地出身の政治家たちが述べている。インドネシア政府が1945年8月17日に独立を宣言した時には、年月日の表記に神武暦が用いられて「2605年8月17日」と表記された。そして、日本軍が敗北すると、日本軍に勝利したイギリス軍など白人宗主国軍がアジア諸地域を再び占領したが、現地住民は、一部の元日本軍兵士も含めて、独立運動に立ち上がった。彼らは日本軍の遺棄兵器を終戦直後の権力空白時に入手し、それが独立運動に寄与したと見られている。以上の諸点から、日本がアジア各国の植民地解放を結果的に促進したとする見解がある。

 日本の支配下にあった朝鮮半島や太平洋諸国が戦後に独立し、満州国は中華民国領土へ復帰した。

 なお、戦場とならなかったサハラ砂漠以南のアフリカ諸国(ブラックアフリカ)の独立運動がアジアより遅く、1960年以後に本格化した事は、第二次世界大戦が大きく関与しているという意見もある。しかし、それはサハラ以南の地域では白人の宗主国が第二次世界大戦終結後も残存し、また経済と社会の発展がアジア地域より遅れていたに過ぎない、という反論もある。

 東ヨーロッパにおいては、勝戦国であるソビエト連邦が同地域のほとんどを占領し、バルト三国などを併合し、ポーランド、ドイツ、ルーマニアなどから領土を獲得すると共に、ポーランド、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどに親ソ政権を樹立した。第二次世界大戦後の冷戦時代に、これらの国を「衛星国」という名の新たな植民地として支配する事になり、その状態は1991年末まで続いた。

大戦と民衆
 第一次世界大戦は国家総力戦と呼ばれたが、第二次世界大戦で、一般民衆はさらに戦争と関わる事を余儀なくされた。戦場の拡大による市街地戦闘の増大や航空機による戦略爆撃、無差別爆撃、ホロコーストなど一民族への大量虐殺など、戦争の様相は第一次世界大戦より過酷なものとなり、空前絶後の被害を受けた。さらに、侵略者に対し、占領下の民衆らによるパルチザン・レジスタンスなどゲリラ的に抵抗する活動が開始され、民衆自身が直接戦闘に参加した。しかし、それは時として正規軍関係者からの過酷な報復を招いた。

 長期に渡る動員によって引き起こされた産業界の労働力不足により婦女子の産業・軍事への進出が第一次世界大戦当時より促進された。このことが多くの国において参政権を含む女性の権利獲得に大きな役割を果たした面もある。

 原子爆弾や焼夷弾などの大量破壊兵器の登場は、多くの民衆を戦闘に巻き込んだ事から、彼らの反戦意識を向上させ、戦後の反戦運動や反核運動へ繋がっていった。

『よい戦争』
 特に1970年代以降のアメリカでは、世界にアメリカの敗北と認識され、アメリカが世界から反感をもたれるきっかけとなったベトナム戦争との対比で、第二次世界大戦を「よい」戦争 (good war) とみる風潮が広まった。「民主主義対ファシズム」の勧善懲悪の単純な構図でアメリカが前者を守る正義を行ったとみる。この動きを多数の大衆インタビューにより、スタッズ・ターケルは『よい戦争 (The Good War)』[60]としてまとめた。この本はその後ピューリッツァー賞を受賞した。

 戦後の冷戦構造の中でのアメリカは、ソビエト連邦の動きに対抗すべく「反共産主義的」であるとの理由で、チリやボリビアなどの中南米諸国や、韓国、フィリピン、南ベトナムなどのアジア諸国の軍事独裁政権を支援した。結果的にアメリカは1991年のソビエト崩壊により冷戦を勝ち抜いたが、経済面では西欧やアジアの復興の前に多極化が進んでおり、すでに1950年代のような絶対的な覇者とは言えない状況となった。ハワイ州を除き国土と生産設備の大半を戦災から免れたアメリカは、軍事外交および経済力において突出した存在となったが、東欧・アジア・中米での共産勢力との戦いやイスラエル建国にともなう中東での戦いなどにつねに当事者であることを求め続けられ、国民は血の献身を求められ続けた。

 降伏後の日本の占領過程では、連合国の代表として日本の占領政策を事実上独占し、戦犯指定をうけた岸信介や児玉誉士夫などを利用価値があるとみるや釈放し復権させるなど高権的統治をおこない、またGHQや極東委員会の非武装原則(憲法改正における非武装条項、極東委員会1948.2.12など)に反し、朝鮮戦争が始まると「警察予備隊を整備させ自陣営に組み込んだ」と、ソビエト陣営の影響下の共産主義者・日本の左翼などに批判されたもの、米国にとっては日本敗戦時から規定事項であり、予備隊を増強・再編を繰り返し、自衛隊という形で日本軍を事実上復活させた。(ただし米国は負担軽減策として自衛隊を国防軍へ更に再編させるつもりであったが、日本国内の陸軍悪玉論により頓挫した)

民主主義と戦争
 カリフォルニア州のマンザナー日系人強制収容所大戦中「民主主義の武器庫」を自称していたアメリカは、それとは裏腹に深刻な人種差別を抱えていた。人手不足から被差別人種であるアフリカ系アメリカ人(黒人)も従軍することになったが、大戦中に将官になったものが1人もなく、大半の兵は後方支援業務に就かされる[61]など差別は解消されなかった[62]。参戦によっても差別構造が変わらなかったのは、主に暗号担当兵として多くが参戦したネイティブ・アメリカン(先住民)[63]も同様であった。

 また、根強い黄禍論に基づいて繰り広げられた日系人に対する差別は、対日戦の開戦後に強行された日系人の強制収容により一層酷くなった。これは第二次世界大戦におけるアメリカの汚点の一つであり、問題解決には戦後数十年もの時間を要し、日系アメリカ人については1988年の「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)、日系ペルー人に至っては1999年まで待たなければならなかった。

 ※白人。黒人。黄人。赤人。青人。







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