西湘の風波

 
2012/11/17 21:23:52|その他
ハーモニカ・コンサート
  二宮町教育委員会生涯学習課主催の「ふれあい音楽教室」のハーモニカ講座の人達が「二宮ジョイフル・ハーモニカ」を立ち上げて、7年を記念しての発表会。第二部に柳川優子さんというプロの演奏があった。

  湘南に因んだ曲が選ばれた。二宮の生まれでないが、昔から慣れ親しんだ曲がこの湘南に関連しているとは思わなかった。

a)みかんの花咲く丘
1946年8月25日、NHKのラジオ番組『空の劇場』で東京・内幸町の本局と静岡県伊東市立西国民学校を結ぶ、ラジオの「二元放送」が行われることになった。放送前日の8月24日の昼過ぎになっても依頼作品が仕上がらずに悩んでいた作曲家の海沼實のもとへ、音楽の月刊雑誌「ミュージック・ライフ」編集長の加藤省吾が、川田正子の取材のため、海沼が滞在していた川田宅を訪ねてきたという。海沼は加藤に急な事情を説明し、自らが歌詞の内容を示唆しながら加藤に1番と2番歌詞を作らせ、そこに加藤が自作の3番を書き加えて、20〜30分で歌詞を完成させた。
それから海沼はGHQで詞の検閲を受け、検印を受けるとすぐに伊東行きの列車に乗り、列車の中で作曲して車窓にみかん畑が現れる国府津駅付近でやっと着想。そして伊東線の宇佐美駅付近でこの歌を書きあげた。翌8月25日の放送に間に合わせた。人気絶頂の童謡歌手川田正子の歌唱で放送された歌は日本全国に大反響を呼び、「みかんの花咲く丘」は、日本を代表する童謡作品となって、現在にいたるまで広く歌い継がれている。

b)真白き富士の根
真白き富士の根は、逗子開成中学校の生徒12人を乗せたボートが転覆、全員死亡した事件を唄った歌謡曲。「真白き富士の嶺」、「七里ヶ浜の哀歌」 とも呼ばれる。1935年、1954年にはこの事件を題材にした同名の映画にもなった。

c)通りゃんせ
関所を舞台とするという説や、埼玉県川越市の三芳野神社や神奈川県小田原市の菅原神社が舞台であるという説があるそうな、共に発祥の碑がある。

d)メダカの学校
作詞は茶木滋、作曲は中田喜直。東京の製薬会社に勤務するかたわら童話や童謡を作っていた茶木、作詞する際に参考にしたのは、依頼が来る4年前の1946年(昭和21年)に神奈川県小田原市にある荻窪用水で息子と交わしたやりとりであるそうな。小田原市に住んでいた茶木、戦中は家族で箱根に疎開していた。しかし自宅が全焼したために、戦後はバラックのような家に住むことになり、食糧を確保するためにたびたび買い出しに出た。ある日、買い出しのために息子と山を降りて荻窪用水周辺を通りかかると、息子がメダカを見つけた。息子が大声を上げるとメダカが姿を隠してしまったので、茶木が「あんまり大声を出すんで逃げてしまったんだよ」と言うと、息子は「大丈夫、またくるよ。だってここはメダカの学校だもん」と返答したと言う。というのがこれまでの定説化した話であったが、童謡研究家の池田小百合が茶木本人と直接書簡をやりとりした結果を2009年に発表したものによると、これは筆者佐藤義美の創作であると結論づけている。4年後の1950年、茶木が雑誌に書いた童話を放送したいと、NHKから連絡があった。その打ち合わせの際に、茶木が本職である童謡を作らせて欲しいと要望を伝えると、NHKは「春先に放送する明るい歌」という条件を出した上で、茶木の要望を受け入れた。そして、茶木は息子とのやりとりを思い出して詞を完成させた、とある。

  よい勉強になりました。湘南は自然豊かでよいところだなと改めて思った次第。






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