日本のプログレッシブロック 新●月

日本のプログレッシブロックバンド最高峰「新月」のファンサイト 「新月ファンサイト〜新●月」 管理人が、「新●月」を紹介するブログです
 
2016/03/22 14:54:00|新●月
新●月

ありきたりのものが
上手に書かれている絵よりも
下手であっても
かつて見たことのないものが
  書かれている絵を僕は見たい。
  新月は正にそんなバンドだった 

 

花本 彰

 

【第一期 新●月】
SerenadeとHALは、テープではそれぞれお互いの演奏曲をすでに聴いていましたが(Serenade、HALの項を参照してください)、1976年8月目黒でのジョイントコンサートで初めてお互いの演奏を目の当たりにします。

ここで、花本彰さんの「世界に通用するプロフェッショナルなプログレッシブ・ロック・バンドを作りたい」という思いと、Serenadeの大曲『殺意への船出PART2』を演奏したい、というHAL津田治彦さん、高橋直哉さんの思いが強く結びつき、この3人で新グループが結成され始動します。

HALオリジナルメンバーでSerenadeラストライブのサポートメンバーだった桜井良行さんが新グループのリハーサルに数回参加していますが、青山学院大学在籍中の学生であるという事もあり、加入には至りませんでした。

 

その後、津田さん高橋さんの青山学院大学の仲間である遠山豊さんの加入が決まります。遠山さんは、ボーカル、ギター、キーボードをこなすマルチプレイヤーでした。
新バンドは、さらに曲を書き溜めながら、新メンバーを探し続けます。

 

その頃、新しいバンドの名前を決める事となりました。
バンド名の候補のひとつは、太陽よりは月、白よりは黒、英語よりは日本語、そして、二音節で濁音が入ると名前が覚えやすいという理由で、花本さんが、なんとなく思いついた名前でした。
その名は「新●月」。

 

また、新月の日は集合意識と繋がりやすくなるというような事が考えられており、そんな理由もあったようです。
他の候補名は「ロック貴族」、「○○○の水たまり(○○○の部分はメンバーはすでに覚えていないそうです」、「エンパイヤ」、「ブラックはみがき」etc.

バンド名は「新●月」に決まりました。

花本さんのSerenade時代の多重録音試作曲『回帰パート2』の中に、突如現れたメロトロンフルートのモチーフは間奏部分となり、花本さんが詩を書き曲として、この頃完成します。
この曲は『鬼』、と名づけられました。
『白唇』もこの頃完成しています。

 

新月は新しいメンバーを探し続けていました。
まず、ベーシストは何人もオーディションしましたが、鈴木清生さんのベース以外には、誰が弾いても物足りず、新月のベーシストは鈴木清生さんに決まりました。


なおこの頃、Serenadeは花本さん脱退後、キーボードの適任者がおらず、高津さん、北山さん、小松さんの3人は、近所のハウスに住んでいた方を誘いEUNVAというバンドを結成します。もっとも、これはテスト的な意味合いがあり、2曲録音されましたが、セッションも3〜4回行われただけで、自然消滅しています。
尚、EUNVAという名前は、当時北山さんが持っていたボーカルアンプのEVANS(メーカー名)を面白がってわざと誤読した名称です。

 

小松さんはこの前後のどちらかに、ジューンブライドというハードロックバンドを結成しています。そしてその後、「マジカル・パワー・マコ」に加入しましたが、レコーディング前に脱退しています。
その後「グランギニョル」(劇団東京グランギニョルとは無関係です)に加入し「崩壊」まで在籍していました。

 

その後、高津さんと北山さんはデュオ「牛浜ブラザース」を結成?します。
名前は大好きな「エヴァリー・ブラザース」から取りました。
公の活動はなく、あくまでインカ帝国関連のパーティや仲間内の前で演奏するユニットで、いろいろなカバー曲やオリジナル曲を演奏していました。必ずラストは『バイバイラブ』で締めていました。

オリジナル曲は北山さんの『光るさざなみ』『ブーツのかかと』『端境期』、高津さんの『クルミの中はミルクティー』『信号』です。鈴木清生さんがゲストで演奏されたこともあったそうです。

北山さんは、新月を、観客として観た事が一度だけあります。

 

当時、アマチュアのプログレバンドを受け入れてくれるライブハウスは都内にはほとんど無く、吉祥寺の電気店「DAC」2階のイベント・スペース、同じく吉祥寺のシルバーエレファント、江古田のマーキー、渋谷の屋根裏、の四店くらいでした。
この四店のイベント・プログラムには他のいろいろなプログレバンドが出演しており、新月はよくマンドレイクと共演していました。

北山さんが観た新月は、「DAC」2階で定期的に行っていたライブでした。新月の曲を聴いた北山さんは、「キャメルのような」印象を持ったそうです。

 

新月には、何人かのボーカリストが参加していました。
北山さんが観たライブの時のボーカリストの方は0011ナポレオン・ソロのデビッド・マッカラム似で、後にロックンロールバンドに加入して活躍しました。

 

女性ボーカリストも試みたそうですが、『せめて今宵は』が、まるでオペラのアリアのように、朗々と歌われていたそうです。他の男性ボーカリストで音楽コンテストに出場した事もありましたが、審査員からは完全に無視されました。
新月のボーカリスト選びは難航していました。誰が歌っても、何か」が違っていたそうです。

「北山でいいじゃん」
津田さんが呟いた一言で、北山さんの加入が決まりました。第二期新月(前期)のスタートです。花本さん、津田さん、高橋さん、鈴木さん、遠山さん、そして北山さんの6人編成のメンバーでした。

 

【第二期 新●月(前期)】

『鬼』、『殺意への船出PART2』、『白唇』、『せめて今宵は』、『赤い目の鏡』、『不意の旅立ち』などの新月の代表曲は北山さん加入前にすでに演奏されていました。
北山さんは、表現のクォリティを上げるため、全ての歌詩のチェックを行いました。
花本さんが書いた『鬼』の詩へ、北山さんは一言だけ赤を入れました。当初書かれていた「暖炉」は「囲炉裏」へと変りました。

 

新月の練習時間は膨大で、土曜日日曜日の終日、月曜日・水曜日・金曜日の夜だったそうです。
リハーサルやライブ後反省会が済むとすぐに解散し、メンバーでお酒やお茶を飲みに行くこともありませんでした。

当時メンバーは、アルコールがこの種のインスピレーションを鈍らせるとわかっていましたから、自宅へ戻ってからもその音楽的テンションを維持しながら曲作りや練習を続けるために寝る前までお酒を飲むこともありませんでした。

 

それは、自分たちに課していたわけではなく、そうしたかったからです。
「新月」という共同体の魅力は正にそこにあり、決して羽目をはずさないロックバンド、これが「いいじゃん、のろうぜ」的バンドに対する新月メンバーの、確固たるスタンスであり、それが誇りでした。
『鬼』を仕上げるための猛練習をしていた頃、北山さんはよく「鬼の花本、仏の津田」といって笑っていたそうです。

 

北山さんが加入してからライブ活動が再開します。加入記念?に江古田マーキーでジェネシスの「MUSICAL BOX」を完全コピーで演奏した事もありました。

 

新月の機材は大変な量でした。イギリス大好きの花本さんと津田さんはハイワットのフルセット。鈴木さんはサンのベースアンプを大音量で鳴らしていました。
北山さんはマイクスタンドの中央部に照明のオンオフスイッチをくくり付け、自分自身でコントロールするという懲りようでした。
当時シルバーエレファントのスタッフだった方は「2バスの巨大なドラムセットだけでステージがいっぱいになって驚いた」と回想されています。

 

ライブは機材の運搬だけでかなりの体力を使いました。
特に当時、渋谷の屋根裏に行かれた方はご存知かもしれんませんが、あの階段を、ハイワットの二段重ね2セット、レスリースピーカー、サンのベースアンプ、2バスのドラムセット、そしてオルガン、シンセ、エレピ、メロトロンをメンバーだけで3階まで運んで登るのです。まさに「苦行」です。

 

ライブ活動は、先の四店舗に加え、1978年4月には、渋谷エピキュラスで、「Mad Live Concert」というイベントに、バレリーナ、ティンカーベルと共演しています。

 

新月が目指した音楽とは?
当時は無我夢中で自分たちも良くわかっていなかったそうですが、ただビートルズのように音楽ジャンルにこだわらず、自由に新しい試みができるバンドでありたいとは思っていたそうです。

 

実際個々のメンバーが日頃接している音楽は殆んど重複していなかったそうです。逆にそれゆえに、メンバーの自己規制によって「新月の音」という枠組みが出来上がったのかもしれません。

 

新月の曲は一曲が完成するまでに最短でも三ヶ月を要したそうです。代表曲『鬼』とバンド名「新月」から、しばし和のイメージが先行しがちな新月ですが、オリジナリティへのこだわりはあっても和へのこだわりはありませんでした。

 

京都での地方公演では、まだまだお客さんは少なかったそうですが、ライブ活動を行っていくうちに、徐々にお客さんも増えていきました。
1978年。時代は既にパンク全盛を迎えていました。

 

練習場所には苦労しました。福生から都内に越してからは、成増駅の近くにある法面をくりぬいた駐車場でもやりました。
ここはカビと埃がひどくて心まですさんできたそうです・・・。
でも、メロトロンを置きっぱなしにしていたのに、盗まれることはなかったそうです。

 

ところで、1972年から5、6年はプログレマニアにとっては夢のようなバブル時代だったそうです。そのおかげで、花本さんは、オランダの「エクセプション」とかアメリカの「ニューヨークロックンロールアンサンブル」といった超マイナーなアーティストも数枚ずつ揃えることが出来ました。

両方共花本さんが大学一年生当時かなり影響を受けたグループです。オランダ人からはオルガンの白玉とチェンバロのアルぺジオの荘厳な組み合わせ方を、アメリカ人からはリズムではなく、メロディーや和声を軸にしたバンドアレンジを学びました。

 

また、後に、アルペジオの重ね方や北山さんのステージアクトなどから、ジェネシスフォロワーと称される事もあった新月ですが、初期の頃は他のプログレバンドのかっこいいリズムなど自覚なく流用する事があり、強いて言えば、「プログレフォロワー」であったのではないでしょうか、との事です。

 

初めて買ったシンセサイザーはローランドのSH1000という単音しかでない楽器でした。国産初の量産型シンセだったそうです。当時で16万円もしました。音程も不安定で、よく裏蓋を開けてオクターブチューニングを直していました。

 

新月のシンセはこれだけです。「新月」は最後までこの単音しかでない初期型のシンセサイザー一筋でした。このような制約は個性にもなるもので、「鬼」や「白唇」のキーンコーンという音はこのシンセにしか出せない寒い?音でした。

 

第二期新月の活動は主にライブハウスを中心に行われ、『白唇』、『赤い目の鏡』、そして『鬼』と『殺意への船出PART2』の二つの大曲は特に人気が高く、演奏のしがいがあり、『殺意への船出PART2』は、緊張と弛緩、決めのパートと自由なパートが程よく配置されていたために、何回やっても「やり飽きない」曲だったそうです。

 

ライブのお客さんの中に当時「フールズメイト」初代編集長だった北村昌士さんがいました。
北村さんは、「ガソリンアレイ」というライブハウスの常連で、第二期HALのライブもよく観ていた関係で、高橋さん、津田さんとはすでに知り合いでした。北村さんは、新月を大変気に入り、その後の新月の活動に大きなバックアップをした方でした。

 

この頃、新月の練習スタジオは、渋谷の並木橋の近くに当時あった「スタジオJ」に移ります。
この専属ミキサーであった森村寛さんは、のちのレコーディングディレクターとして、新月にはなくてはならない存在であり、また新月のメジャーデビューの大きなきっかけを作りました。

 

森村さんは、高校時代「レガリア」というバンドを桜井良行さんたちと結成していました。その練習場所が、高橋さんや遠山さんが所属する青山学院大学の軽音楽部部室であった関係で、新月とのつながりがありました。

 

「スタジオJ」は、南箱根にある「ロックウェルスタジオ」と兄弟スタジオでした。
森村さんは高校時代からロックウェルスタジオの塩次さんと知り合いでした。
その塩次さんが、「スタジオJ」に来られた時、森村さんが新月のデモテープを聴いてもらったところ、大変気に入り、是非新月をロックウェルで録音しましょう、という事になったのです。

さらに塩次さんがプロデュースを名乗り出て、ビクター音楽産業からデビューが決まり、レコーディング前のリハーサルはスタジオJで行うという大変恵まれた環境で、レコーディングは進みました。

デビュー前の1978年11月25日、新月は御茶ノ水全電通ホールで開催されたイベント「FROM THE NEW WORLD」に参加します。メンバーは北山さん、花本さん、津田さん、高橋さん、鈴木さん、遠山さんの6人です。
共演は「美狂乱」、清水一登さん桜井良行さんのバンド「ガラパゴス」等です。
http://shingetsu-koro.whitesnow.jp/1978vol605.jpg

 

新月はギターアンプのトラブルで、演奏時間が押してしまったそうですが、音作り、機材、そしてもちろん演奏力、全てが圧倒的な存在だったそうです。

【第二期 新●月(後期)】

 

翌1979年冬から初夏にかけ、新月は南箱根ロックウェルスタジオで録音を開始します。レコーディンを機に遠山豊さんはマネージャーへと転向します。
キーボードのサポートメンバーは、バッハ・リボリューションの小久保隆さんです。
http://shingetsu-koro.whitesnow.jp/rockwell.html

レコーディングは合宿状態で進められました。
スタジオの近くにヴィラがあり、そこで泊まりこんで翌日の準備などをしました。睡眠時間はほとんどなかったそうです。何日か泊まりこんでは録音し、また東京に戻っては次の曲をかため、そしてまたスタジオへ行く、という事の繰り返しだったそうです。

録音にかかったのはのべ30日です。予定より、大幅に伸びました。いかにこの録音が長期であったかは、免許がなかったメンバー2人が、箱根で運転の練習をし、後半は免許を取って、車で通っていたというエピソードが物語っています。

 

制作費は当時の金額で一千万円。宣伝費まで食い込んでいたそうです。新人バンド、それもプログレのバンドとしては、破格の扱いでした。

当時は24チャンネルの録音が精一杯でした。新月は、大変な数のオーバーダビングをしたので、しまいには各チャンネルの空いた部分に他の楽器をインサートせざるを得なくなりました。当時ミキシング・エンジニアの宮沢さんが大変なご苦労をされたはず、とメンバーは回想しています。

新月は、ロックウェルスタジオで、同時にセカンドアルバムの準備もしていました。その中に、『赤い目の鏡』、『殺意への船出PART2』の曲がありました。
ファーストアルバムの曲順は、すでにセカンドアルバムを想定したものでした。

 

新月の三大大曲、『鬼』、『殺意への船出PART2』、『不意の旅立ち』がファーストアルバム収録への候補にあがっていました。

曲の配列を決める上で、レコーディング・ディレクター森村さんから、当初提示された曲順は

 

A面:『鬼』『赤い目の鏡』『白唇』 
B面:『殺意への船出PART2』『せめて今宵は』
でした。

 

しかし、花本さんは、『赤い目の鏡』『殺意への船出PART2』は、アレンジ面でまだ未消化の部分があり、なにより『殺意への船出PART2』は10代の頃の曲で細部への不満もありました。

そして、北山さん、津田さんという強力なソングライティング能力を持ったメンバーの出番が少なすぎるとの思いがあり、メンバーでミーティングを行い、最終的な曲のラインナップを決めました。(余談ですが、花本さんがもしも今、この曲順を並べるなら、A面:『鬼』『白唇』『せめて今宵は』 B面:『赤い目の鏡』『殺意への船出PART2』だそうです)

曲の配列を決めていく上で、アップテンポの曲も入れるように、との事になり、急遽『科学の夜』が書き下ろされました。A面一曲目をイメージして作られたそうです。

 

まず、ファーストに入る曲は、三大大曲のうち『鬼』、この『科学の夜』、『せめて今宵は』、『白唇』が決定し、メンバーは残る数曲を選考していました。
後に北山さんのソロアルバムで発表される『光るさざなみ』は、曲としては良いが、新月曲としてはポップであるという理由で、アルバムには収録されませんでした。

結果的に『朝の向こう側』、『発熱の街角』、『雨上がりの昼下がり』、『魔笛"冷凍"』が収録される事となりました。

北山さんの手により、アルバム全体が 夢-夜-朝-昼-夜-夢と、ひとめぐりするように整えられました。
アルバムタイトルは「新月」。

 

プロモーションビデオ撮影も行われました。スタイリストは土屋昌巳さんの奥様です。ビデオ撮影と同時に膨大な写真が迫水正一さんによって撮影されました。

 

アルバムのミックスダウンは開業したばかりの一口坂スタジオで行われました。新月が、世界発の新機能をフルで活用する日本で初めてのアーティストとなりました。

1979年7月25日。
ファーストアルバム「新月」がビクター音楽産業のZENレーベルより発売されました。
http://shingetsu-koro.whitesnow.jp/timemachine.html
同時に、アルバム発売記念コンサートが25日、26日の両日開催され、当時の最先端であった三面マルチスクリーンを使用した画期的な演出がされました。
観客席では、ジェネシスのマネージャーが、映像を褒めまくっていたそうです。
ミキサーは志村明さん、森村寛さんです。

このデビューコンサートの、観客動員数は千人という、新人バンド、それもプログレの新人バンドとしては異例の数字を記録しました。
アルバムは1ヶ月で四千枚、という売れ行きを示し、好調なスタートでした。
http://shingetsu-koro.whitesnow.jp/yomiuri.html
http://shingetsu-koro.whitesnow.jp/abcticket.jpg
http://shingetsu-koro.whitesnow.jp/abcticket04.jpg

ラジオでは『鬼』がオンエアされました(AMかFMかは未だに不明)。
シティロード誌で読者選出国内盤ベストアルバム15位に選ばれています。
北村昌士さんが編集長を務めるフールズメイト誌は、デビュー前から新月を何度も取り上げて、その存在をプログレファンへと発信していました。

 

デビューコンサート直後に、伊藤政則さんの企画物アルバム録音のために結成された高津さんのバンドに、花本さん、北山さんは、小松さん、破天荒の阿久津徹さんと共に参加しています。録音された曲は『海にとけこんで』です。
http://shingetsu-koro.whitesnow.jp/history8.html

新月は結成当時から、ライブ活動を活発に行っていました。吉祥寺の「DAC」「シルバーエレファント」江古田の「マーキー」、渋谷の「屋根裏」などのライブハウスを中心にした活動でした。
メジャーデビュー後も、8月17日(金)、9月20日(木)「LOFT」でライブを行い、11月1日木)「LOFT」、18日(金)原宿「クロコダイル」(昼間の時間帯に開催して、高校生にも気軽にライブを楽しんでもらおうという、ロッキン・オンの企画です。新月のキャッチコピーは「遠い星で待つきみのために、うたう」)26日(月)には「シルバーエレファント」また、神奈川大学の学園祭など特に11月は「芸能人みたい(北山さん談)」と思ったほどのスケジュールでした。

 

ライブの客層の割合は、男性が6〜7割、女性が3〜4割で、最前列にマニアックな男性プログレファンが陣取って、じっとステージを観ていました。ちなみに、津田さんには一番たくさん「追っかけ」がいました。但し女性ではなく、ギター小僧さんたちでした。

アルバムとデビューコンサートのサポートキーボードは小久保隆さんでしたが、デビュー後、清水一登さんが新月加入となり、リハーサルに参加していました。
しかし、初めて参加する予定だった吉祥寺エレファントのライブ直前に急病で倒れ、清水さんは「幻の新月メンバー」となります。
以降キーボードサポートは津田さんの妹さんで後期HALメンバーだった津田裕子さんが参加しています。

12月に入り、14日(金)に高田馬場BIG・BOXにある、ビクターミュージックプラザのコンサートに出演します。
コンサートタイトルは「科学の夜」。

1978年に「御茶ノ水全電通ホール」のイベントで共演した美狂乱とのジョイントコンサートでした。入場すると会場内が異様な緊張感に張り詰めていた事と、北山さんが怖い顔をしていたのを、今もよく覚えています。
先の演奏は美狂乱。この時のドラマーは佐藤正治さんで、壮絶なパフォーマンスが繰り広げられていました。

新月はアルバム収録曲に加え『赤い目の鏡』『殺意への船出PART2』『不意の旅立ち』などの未発表の大曲を演奏しました。
もちろん、ステージアクトは棺桶、電話、モンスターマスクなどの小道具を駆使し、新月のライブの魅力が余すところ無く表現されていました。
この美狂乱とのジョイントコンサートは、今も、観た人が皆、圧倒されるほど素晴らしかったと、口をそろえて感動を語り継ぐ「伝説」のライブとなりました。

 

翌週23日(日)は、昼間13時から、吉祥寺シルバーエレファントにて、クリスマスコンサートが開催されました。
この企画はファンの集いを兼ねたもので、クリスマスパーティという事もあり、BIG・BOXとは打って変わってラフな雰囲気で、北山さんが『赤い目の鏡』の津田さんの歌マネをしたり、『スターマン』が演奏されたりと、メンバーもみなにこにこと笑顔での楽しいコンサートでした。
http://shingetsu-koro.whitesnow.jp/silver1979.html

 

年が明け1980年になりました。毎月精力的にライブ活動を行っていた新月ですが、数ヶ月間ライブはなく、4月になって3日(木)「ラフォーレ原宿」で、コンサートが行われる事となりました。
芝ABC会館ホール以来の、ホールでのライブで、「スペース・サーカス」とのジョイントコンサートです。
http://shingetsu-koro.whitesnow.jp/laforet01.jpg
http://shingetsu-koro.whitesnow.jp/laforet02.jpg

 

演奏は新月が先でした。
竹垣がステージにセットされていたのを覚えています。
オープニング曲は『殺意への船出PART2』。『雨上がりの昼下がり』『島へ帰ろう』『科学の夜』『白唇』 が続けて演奏されました。

 

『白唇』の演奏の後、花本さんのMCがありました。
「第二期新月は今日で一応終わります。次の活動は、もっと違う面から掘り下げて行きたいと思います。」
この場に居たファンの中で、この言葉の深い意味が分かった人は、そんなに多くは無かったと思います。

この後『赤い目の鏡』 が演奏され、メンバーはステージから去って行きます。
アンコールの連呼と拍手の中、メンバーが再びステージに戻ってきました。北山さんは鬼装束姿です。
鐘の音が客席へ鳴り響き、あの、キーン コーンというシンセサイザーの音が聴こえてきます。圧倒的な、まさに文字通り鬼気迫る演奏でした。
演奏が終わり、拍手は鳴りやみません。しかし次のアンコールには、新月メンバーはもう、応えてはくれませんでした。

 

HALメンバーに「この曲を演ろうぜ」と決意させ、今も進化し続けている曲『殺意への船出PART2』。
Serenade時代に、突然モチーフが現れその後代表曲として完成した『鬼』。
新月という偉大なバンド誕生の礎となった、この二つの大曲が、オープニングとラストに演奏されるという構成のコンサートでした。

 

そして、この5人のメンバーで、この2曲が再びファンの前で演奏されるのは、この日から、実に26年の歳月を数える事となります。

 

このコンサート直後に、ベースの鈴木さん、ドラムスの高橋さんが脱退します。
また、遠山豊さんもマネージャーを辞める事となりました。
このニュースを知って、花本さんのMCの深い意味を、あの場にいたファンは初めて知りました。
http://shingetsu-koro.whitesnow.jp/history9.html

 

メジャーデビューから一年を待たず、第二期新月は活動を停止します。
新人には破格の待遇の順調なデビューで、制作費が宣伝費までに及ぶ事も許され、高いクォリティをもって完成したアルバム「新月」は今も至宝の輝きを放ち続け、その輝きはさらに増すばかりです。

 

しかし、反面、宣伝費を使ってしまった為、充分な告知宣伝が出来なかった事、さらに時代は、まさにパンク全盛期であり、アルバム売り上げの採算はとれず、12月14日の美狂乱とのジョイントコンサート「科学の夜」の直後、プロダクションは倒産していました。
そんな状況下での、吉祥寺のクリスマスコンサートと原宿のコンサートでした。

 

花本さん、北山さん、津田さんの「そして三人が残った」新月は、第三期新月の活動へと入ります。
ビクター音楽産業との契約は、あと一年ありました。

【第三期新●月】

 

1980年。
第三期新月は新たな活動の準備に入りました。
1980年FOOLS MATE8月号(「FOOLS MATE Voi.13 LA POP METAPHYSIQUE 」)に、第三期新月の活動と、セカンドアルバムタイトル案についての記事が掲載されました。
http://shingetsu-koro.whitesnow.jp/takehikaru.jpg
この記事によると、9月にはベース・ドラムスの新メンバーを迎えて活動開始予定、不確定情報ですが、12月にはセカンドアルバム発売されるという小さな記事です。
アルバムタイトルは「竹光る」。

 

新月を脱退したベースの鈴木清生さんは、小久保隆さん、松本かよさんと共に「タペストリー」を結成しCMやTV音楽の制作に携わります。
高橋直哉さんは、桜井良行さん、清水一登さんと、新バンドを結成します。

 

花本さん、北山さん、津田さんの三人は、「改訂版ー春の館」の挿入歌『あかねさす』など劇団インカ帝国へ、数々の楽曲を提供しました。
9月にラフォーレ原宿で上演された「浪漫風」へは、花本さん、津田さんが貫頭衣のような黒のローブを纏い、生演奏で出演した事もありました。

 

新月は、主に高円寺にあったSecond Lineというリハ・スタジオでベースに石畠弘さん(後の雲母社創設メンバー。現カナダ在住)、ドラムスに藤田響一さんの新メンバーを迎え、セカンドアルバムに向けて録音を行っていました。

ファーストアルバム制作時に、同時に考えられていた当初のセカンドアルバム案は変更され、『竹光る』、『新幹線』、『ロック・フェスティバルの思い出』(現タイトル『武道館』)、『赤い砂漠』などの新曲が作られていました。
『鬼』、『赤い目の鏡』の二曲だけは、新曲と共に、リハーサルで演奏されていました。

セカンドアルバム用にとファーストに収録されなかった『赤い目の鏡』は、すでにロックウェルスタジオで、ベーシックトラックの録音が終わり、オーバーダブとヴォーカル録りを待つばかりとなっていました。
セカンドアルバムの構想はすでに練られていました。

ここで、ビクター側は、大幅なイメージチェンジを要求してきました。
もっとポップな作品を作るようにと、花本さんにはSPARKS風、津田さんにはROXY MUSIC風という提案があり、北山さんはこれに応えて『さくら日本』(現タイトル『週末の終末』)を作詩作曲します。

しかし、セカンドアルバム原盤制作にあたり、ビクター音楽産業側から提示されたのは「新月/新●月」の五分の一の予算でした。
「形になるものを出すからには納得のいくものを」
新月のこの思いは、現実的に不可能でした。
1981年、新月はビクター音楽産業と契約解除を行います。

その後、新月は再び何人かのメンバーチェンジを行います。
ベースに栃沢さん、田中さん、ドラムスにZELDA加入前の当時高校三年生だった小澤亜子さんを迎え、『アロワナ』、『Monkey Business』などの新曲を作り、リハーサルを行っていました。但し、このメンバーのリハーサルでは、すでに『鬼』、『赤い目の鏡』もレパートリーから外されていました。
このメンバーでの活動は長く続く事はありませんでした。

新月はある日、ついに活動を停止します。
池袋西口で、北山さんと花本さんが珍しく二人で飲みながら、どちらからともなく
「もう終わりかな」「終わりにするか」
と言ったのが実質解散宣言でした。

それが、1981年だったか2年だったか、北山さんも花本さんも記憶がないそうです。
解散コンサートが行われたわけでもなく、公に解散の告知がされたわけでもありません。
その事実をファンが知ったのは、それから大分経って、音楽雑誌に掲載された「新月解散」の小さな囲み記事に拠ってでした。これがいつだったのか、わたしも記憶にありません。
ここから新月は、長い長い活動停止期間へと入ります。

 

【個々の活動】
1982年からは、新月メンバーは個々の活動に入ります。
ここからは、時系列での表現は難しいので、各活動ごとの紹介となります。

 

【高橋直哉】
高橋さんは、清水一登さん、桜井良行さんと新バンドを結成しましたが、このバンドは活動を停止しています。
1983年に桜井さんが参加していたプログレ・フュージョンバンド「AQUAPOLIS」(桜井さん参加の音源は『Eldorado』『ノルウェーの印象』の二曲があります)吉祥寺ライブに参加しました。
高橋さん参加の音源は残念ながら発表されていないようです。
また桜井さんは1985年に「NOA」に加入しています。

 

【鈴木清生】
鈴木さんはタペストリー結成後CMやテレビ音楽の制作を続けていましたが、1987年渡米します。

渡米直前に、鈴木さんは霞町のライヴハウスで、一夜だけのセッションを行います。
メンバーは、マジカル・パワー・マコさん、第三期新月ドラマーの藤田響一さんです。
全員、顔にカラフルなペイントを施し、爆音が場内を満たす「弾けきった」演奏だったそうです。

 

渡米後、ニューヨークのハーレムの教会で働きながら、ゴスペルの演奏を行い、またストリートや、テレビにも出演しました。
1990年にはジャズ・ベーシストM・フレミング氏に師事し、師の家(サウス・ブロンクス)に移転し、活動を続けます。
1995年に 帰国後、遠藤喨及(MIDIレコード)サポートや、小久保隆さん、松本かよさんたちとmongo DIVAを結成し「誕生」(スタジオ・イオン)というアルバムを発表しています。また府中のジャズクラブ 等で活動を行います。
2004年  「GOODNESS」を宇野佳子さん、平ヒロミさんと結成し、2008年まで活動を行っています。

 

【SNOW】
北山さんはソロアルバム(カセットテープ)「動物界之智嚢」を一年かけて制作します。SNOWレーベルを立ち上げ、1982年に「動物界之智嚢」、1983年に「文学ノススメ」(文学バンド)、1984年に「Art Collection 1」、「Art Collection 2」「DOOL」(PHONOGENIX)、「No Future」(岐阜のヴァンゲリス:金子卓司さん)のカセットアルバムの発売を手がけます。

【PHONOGENIX】
◎「商業的音楽制作活動期」1982年〜84年
津田さんと花本さんの二人は「Science Fiction」名義でデモ曲を数曲作ります。
作曲は津田さんです。
その後、マンドレイクの阿久津徹さんの紹介で、津田さんと花本さんはテレビ番組の音楽制作の仕事を開始します。
その初めての仕事がテレビ朝日の「クイズハンター」のテーマ曲です。10年間毎日同じ曲が番組で流れていました。一部では有名な曲です。

仕事を続けていく上での窓口が必要となり、二人は花本さんの自宅があった下赤塚に、音楽制作プロダクション「PHONOGENIC STUDIO(フォノジェニック・スタジオ)」を、津田さんが社長、花本さんが専務(ほとんど約款上の名義)として設立します。この時点では、まだPHONOGENIXというバンドは存在しません。
ちなみに、後1987年に大山曜さんが入社します。

 

スタジオ設立後、花本さんは「ぴあ」の社長室付きセクションで仕事を開始します。
同時に「ぴあ」に「フタまんガーッ」という二コママンガを、「ザ・テレビジョン」に、「まがっちょる」という6 コママンガを連載を開始し、マンガ家としても活躍します。
当時「フタまんガーッ」「まがっちょる」の、新月をファンだった愛読者の人たちは、花本さんと同姓同名のマンガ家さんと思っており、後に「新月の花本さん」の作品だったと知って大変驚いたという声を寄せています。

花本さんは「ぴあ」の仕事がだんだん忙しくなり、音楽活動にだけ集中する事が難しくなってきました。
そこで、津田さんが代々木にマンションを借り、PHONOGENIC STUDIOは移転し業界の仕事を受けて行く事になりました。スタジオは、シンセサイザーのオペレーションも始めていました。
83、84年はこういった仕事は、全て津田さん一人で行っていました。

年代は大分先へと飛びますが、91年のレベッカの解散コンサートでは、11トン車を11台使っての仕事を行い、また、95年3月8日・12日のローリング・ストーンズ東京ドーム公演の日本側収録チームの録音ディレクターの仕事を行います。
しかし、ここで津田さんは、大規模な産業としてのロックの仕事は、何か自分の方向性とは違うと思ったそうです。津田さんはこういった仕事はやめる事にしました。

 

◎1984年は、ポストモダンを音楽で表現したPHONOGENIX、劇団の劇伴担当としてのPHONOGENIX、ライブバンドとしてのPHONOGENIXが3つの活動を同時に行っていた年でした。

 

FOOLS MATE初代編集長北村昌士さんたちとのユニット「ポストモダンミュージック」のイベントやアルバム制作、並行して、如月小春さんのプロジェクト公演および後に如月さんが旗揚げした劇団「NOISE」・手塚眞さんの映像作品の劇伴制作、そして87年までは、ニューウェイブバンドとして活動していました。

 

北村昌士さんとの共同作品以外は、PHONOGENIXは完全に津田さんのソロ・プロジェクトでした。多種多様なメンバーが参加しましたが、一貫した津田さんのコンセプトにより、常に同じムードを持っていたそうです(花本さん談)。

 

☆「ポストモダン」1984年

 

1984年はニューウェイブミュージックブームのピークでした。バンドとしてのPHONOGENIXは「クロコダイル」でよくライブを行っていました。また、津田さん、花本さんは、レコーディングユニットとして、如月小春さんの劇団のサウンドトラックを担当していました。
この二つの活動を行っていると、フールズメイト初代編集長北村昌士さんが一緒に活動したいと申し入れてきました。
北村さんは当時、フランスポストモダン系の哲学に傾倒しており、音楽のライブより、むしろパフォーマーとして、何か表現したい、と北村さんは言ってきました。
この頃すでに北村さんはフールズメイトを確立しており、新月前身バンドHAL時代から津田さんはお付き合いがありましたが、北村さんは「とにかく頭が良く言っていることが面白い人」だったそうです。

 


その頃、楽器のサンプラーの台頭が始まり、サンプリングが出来るようになってきました。
津田さんは、これを使って肉体労働的なライブではなく、デジタルで音楽をやるとどうなるのか、という実験的なコンセプトで音楽を作ろうと考えていました。
バンドPHONOGENIXメンバーである大森俊之さん(現CM作曲家。アニメ作品「エヴァンゲリオン」のテーマ曲『魂のルフラン』等の作曲家。新月後期マネージャー竹場元彦さんの小学校の同級生)、歌が上手で英語が得意な椎名K太さん(のちにバンド「七福神」結成。現TVドラマサントラ作家)や、伊藤信介さん(「電気ブラン」のプロデューサーで選曲を行っていました)や、当時出入りしていた学生たちとそんな計画をしており、丁度そこへ北村さんが参加する事となったのです。

 

この企画は「ポストモダンミュージック」というイベントで、実現する事となりました。
会場はライブハウスではなく、渋谷パルコ劇場で開催されました。。
なぜパルコという会場で開催が出来たのかというと、津田さんの知人で当時コンサート制作会社「スマッシュ」に在籍していた伊藤さん(現:作家松沢呉一さん)と一緒にこのイベントを実行しましょうという事になったのですが、伊藤さんは、それ以前にパルコに在籍していた関係で、会場が渋谷パルコ劇場になったのです。また、担当ディレクターの稲葉さん(現トイズファクトリー社長)は、坂本竜一さんや赤城忠治さんと親交があり、当時のニューウェーブシーンの人脈に精通していた方で、伊藤さん、稲葉さんというお二人の強力なバックアップで、実験的な試みのはずが、普通ではあり得ない大がかりなイベントとして開催する事が出来たのです。

 


当時、丁度セゾンはイメージ戦略を当時流行ったニューアカ(ニュー・アカデミズム)を打ち出していました。
PHONOGENIXはそのイメージに乗ることにしました。
ナチスのような衣裳を着け、浅田彰さん、秋田昌美さんも参加し、当時としてはかなり派手なイベントだったそうです。

 


一方、ポストモダンの音楽としての表現は、北村さんの企画・プロデュースで、アルバムが2枚制作されました。
LPレコード「ポスト・モダン・ミュージックへの序章」と、花本さんが作曲した『サバンナ』という曲に北村さんが詩をつけ、「HYMNS FOR SAVANNAH」という30cmEPを発表しています。

 

(敬称略)
○「ポスト・モダン・ミュージックへの序章」北村昌士 LP/Vapレコード。北村昌士/津田治彦/花本彰/清水一登/津田裕子/石畠弘/伊藤信介
浅田彰さんと中沢新一さんの対談がブックレットになっています。

 

○「HYMNS FOR SAVANNAH」PHONOGENIX 30cmEP 作詩:北村昌士 作曲:花本彰 /演奏:北村昌士/津田治彦/花本彰/椎名K太/伊藤信介/大森俊之/石畠弘


☆「劇伴」「サウンドトラック」 1983年〜1984年
時代は小劇場ブームでした。
津田さん、花本さんは、北村昌士さんとの「ポストモダン」、ライブバンドとしての「ニューウェイブバンド」の活動と同時に、如月小春さんのパフォーマンスや、後に如月さんが立ち上げた「劇団NOISE」の劇伴、手塚真さんの映像作品のサウンドトラックを、PHONOGENIX名義で制作していました。
「メロディは美しくなければならない」という花本さんの徹底したコンセプトで曲作りは行われていました。

如月小春劇団の上演作品で、実際に劇中で使われた音楽は、津田さんと花本さんが脚本を読み練習を観て感じたものを作品にしており、その場面と密接に並行していました。

 

しかし、音源として発表されている作品は、底辺に流れる雰囲気はすべて徹底的に共通していますが、劇中で使われた音楽とは違うバージョンで、意図的に作り直して発表しています。
大音量で実際に演じられる劇と台詞とが絡んで効果を上げる為に作られた音楽を、そのまま単体で取り出しても、個人の部屋の中のステレオで聴く音楽にはならない、という理由だからです。
北山さんが立ち上げたSNOWレーベルからサウンドトラックがカセットテープで発売されていますが、録音クォリティは良くないそうです(花本はこの頃の音源は現在世に出したがっていません:津田さん談)。

但し、「サエキけんぞうPRESENTSハレはれナイト(1989)」に収録されている『Golden Bug』だけは唯一きちんと聴く事が出来る音源です。

 

如月さんのプロジェクト公演「ArtCollection2」は、劇とパフォーマンスの境界がない、アートに近い非常にクオリティの高い作品だったそうです。
この劇に使われた曲の中でも先に挙げた『Golden Bug』は劇伴の中でも傑作です(津田さんご自身がきっぱりとおっしゃっています)。

実際の演劇で使われた『Golden Bug』は、演劇のコンセプトを反映して劇中ではインストルメンタルで流されましたが、音源として発表されている『Golden Bug』は津田さんが英語で歌詩を書いています。

 

「ポストモダン」と同じく、演奏に伊藤信介さんがパーカッションで参加しています(津田さん花本さんの写真つきPHONOGENIXの紹介文に、エイリアン、変人、はみだしもの、サイキック、宇宙人などにファンが多い。両人とも社会的にはマトモだが人格が崩壊している、などと書かれています・・・)

 

伊藤信介さんのセンスはローリー・アンダーソンでした。伊藤さんの人脈で高橋鮎夫さん、チャクラの近藤達郎さん、ドラマ「101回目のプロポーズ」のピアノで有名な日向さんたち当時のアンビエントミュージシャンと、PHONOGENIXは知り合います。
この頃から、津田さんと花本さんは、次第に如月小春劇団から離れていきました。

津田さんと花本さんが劇伴をやると、音で舞台を圧倒してしまうのです。
コンサートなのか、演劇なのか、わからなくなりかかってしまうところで、舞台のバランスを崩してしまうのです。

チャクラの近藤さんは演劇が好きで、やりたい事が如月さんのコンセプトと一致していました。
津田さんと花本さんは、如月さんの音楽制作の仕事を、近藤さんにバトンタッチする事にしました。伊藤さん、高橋さん、日向さんたちと如月さんは相性が良く、面白い作品を作っていったそうです。

また津田さんと花本さんは手塚眞さんの監督映画「SPh(エスフィー)」のサウンドトラックを三日三晩かけて制作しています。
チームとしては「ファンシィダンス」に繋がるのかもしれません(津田さん談)

 

北山さんが立ち上げたSNOWレーベルから発表されている音源(カセットテープ)は以下の通りです(敬称略)

 

「ART COLLECTION1」/如月小春のプロジェクト公演 津田治彦/花本彰/伊藤信介
「ART COLLECTION2」/如月小春のプロジェクト公演  津田治彦/花本彰/伊藤信介
「DOLL」/如月小春劇団「NOISE」公演  津田治彦/花本彰/伊東信介
「SPh」/手塚真監督映画 津田治彦/花本彰
「光の時代」/劇団NOISE公演 津田治彦/花本彰/伊藤信介

 

☆ニューウェイブバンド 1984年〜1987年

 

1984年はニューウェイブシーンのピークの年でした。ライブバンドとしてのPHONOGENIXの活動が、劇伴、サントラ、ポストモダンと並行して行われていました。
新月第三期末期ドラマー小澤亜子さんからニューウェイブ人脈が始まり、津田さん、花本さんは、DeLuxの京極蘭丸さんと知り合います。

 

第一期PHONOGENIXメンバーは、津田さん、花本さん、第三期新月ベーシスト石畠弘さん、大森俊之さん、椎名k太さん、小澤亜子さんというメンバーでライブ活動を行います。
新月メンバーの中で、津田さんはウルトラヴォックスなど、ニューウェイブの音楽が好きでした。PHONOGENIXの音楽はウルトラヴォックス系で、イギリスで言うバウハウスのイメージの世界だったそうです。
クロコダイルに気に入られており、クロコダイルでよくライブを行いました。
当時は記録には興味がなく、ライブ以外には仕事をやらなければならないので、リリースはしませんでした。

 

このライブ音源はかなり残っており、すべてオリジナル曲で10数曲が津田さんの手元にあるそうです。「今聴くと良い曲があるので、何時か何とかしてみたいですね(津田さん談)。

 

後半は津田さんがジャパンに傾倒しており、新生PHONOGENIXはいくつかデモを制作しています。後半は花本さんは映像の仕事で忙しく音楽活動へは参加していませんが、『END OF THE DAY』という曲は良かったです(花本さん談)。

新生PHONOGENIXのフロントは津田さん、椎名さんで行っていました。ライブ会場には、京極さん、小澤さんの流れでお客さんはたくさん入っていたそうです。但し新月ファンはすでに、全く居ませんでした。

 

ニューウェイブバンドの活動は三年間続きましたが、「バンド疲れました状態」になり87年で活動停止となります。

 

ニューウェイブ時代に参加した作品は以下の通りです(敬称略)
・「ファンシィダンス」(1988年発表のイメージアルバム)は、手塚眞さんが、後に結婚される岡野玲子さんの作品の為に制作したアルバムです。有頂天のケラさんが歌ってたり、中沢新一さんがチベット語で朗読をしています。

PHONOGENIXは以下の二曲に参加しています。
「えい人見空中華」(作曲、編曲:Phonogenix、演奏:津田治彦(g, cho)、花本彰(key, cho)、手塚真(cho)、ダマル(vo)、カンリン(vo)、中沢新一(vo)、大山曜(programming))
「百尺竿頭進歩十方世界全身」(作詞:中沢新一、岡野玲子、手塚真 作曲:Phonogenix 編曲:成田忍 演奏:成田忍(g, key, cho)、沖山優司(b)、寺谷誠一(d)、MICK(cho)、ケラリーノ・サンドロヴィッチ(vo)、岡野玲子(漢詩朗読)、美島豊明(programming))

 

「SPICE」by北川晴美+インド大話術団(詩:サエキけんぞう 曲・編:PHONOGENIX) 津田治彦/花本彰 作曲、演奏 これは花本と二人で作った曲です。良い曲です(津田さん談)。

 

☆アンビエント・エスニック・プログレ 1988年〜1997年

 

PHONOGENIXは以降レコーディングだけの活動となります。
1988年に入り、初期レーザーディスク制作、初期カラオケ通信システム開発、ゲーム紹介ビデオや音楽、CM曲作曲などの音楽制作の仕事を、PHONOGENIXあるいはPHONOGENIC STUDIO名義で行っていきます。
CMの曲などは津田さん個人名義で多く作られていますが、サウンドトラックやゲーム音楽等音源として公に発表されている作品はPHONOGENIX名義です。

 

当時レーザーディスクの国内向け原盤は殆どありませんでした。ここで国内で原盤を作る事となりその草分けとなる制作チームに参加する事となりました。
ドルビー・サラウンドシステムでサウンドトラックを作る実験的なプロジェクトです。

 

まず制作したのは曲芸飛行隊シリーズのレーザーディスクの仕事でした。
飛行機マニア向けのジャンルのレーザーディスク制作の仕事です。
当時で1000万円くらいのレーザーディスク専用リスニングルームを自宅に持つような人たちが日本には約2000人くらい居り、その人たちに向けて2000枚売ろうという事になりました。
イギリス・イタリア・フランスなど各国曲芸飛行隊のトップ・ガン同士の交流の中に日本人関係者がおり、この人脈からPHONOGENIXに依頼があり、パイオニアと仕事を行っていきます。

 

1987年にPHONOGENIC STUDIOへ入社した大山曜さんが制作に加わります。
曲芸飛行隊シリーズ第一作はアメリカの「ブルーエンジェルス」の作品で、花本さんも制作に参加しています。しかし、この頃から花本さんは段々と仕事が多忙になりあまりPHONOGENIXに関われなくなってきました。
後のシリーズは津田さんと大山さんが二人で制作しています。このLDは当時で8000円という高額なものでした。

 

1992年のLD「地球のきもち」には、映像演出と音楽に花本さんも参加し、津田さん花本さんで制作しています。マルチメディア賞を受賞し、映像・音楽共に非常に高度な作品で、業界では画期的な作品と評価されていました。
PHONOGENIXの名がクレジットされています。二枚組で1時間半くらいの作品ですが、パイオニア発売のLDはDVDでの再発予定はなく、残念ながら在庫切れのままだそうです。

 

2005年にPHONOGENIXとして発表したアルバム「METAGAIA」にこの「地球のきもち」で使われた曲が収録されていますが、「地球のきもち」は音楽先行で制作し、映像から独立して発表しても良いように作っています。

 

94年にはLD「アストロノーツ アイズ」、97年には「霊峰富士」をいずれもパイオニアから発売しています。こちらはDVDで再発されています。

 

「霊峰富士」は、富士山を五年間定点観測した映像でそれを三十分に凝縮した作品です。雲の動きや色などこれは凄いです。隠れた素晴らしい名作です(津田さん談)。

 

「METAGAIA」の4曲目はこの「霊峰富士」のサウンドトラックを落としなおした曲です。

 

映像監督はニューヨークでキング・クリムゾンのプロモーションビデオを制作した島田さん、初期PHONOGENIXのシンセサイザーオペレーションを担当していた辻さんが、アストロノーツアイズシリーズに何曲かを提供しています。辻さんは「ムツゴロウ」さんの番組のサントラも担当した方で、その関係で97年にPHONOGENIXはムツゴロウさんの特番のサントラを作りました。
アストロノーツアイズの頃の曲から発展して作られたのがCD「Swirl Word」です。

 

この間、CM曲や任天堂スーパーファミコンの曲を制作しています。
この頃は大山曜さんが、ゲーム音楽のいろいろなモチーフを持ち寄って作っていましたが、この中からアストゥーリアスのモチーフも出来てきました。
コンピレーションアルバムへの参加等さまざまな音楽制作の仕事を行っていました。
「霊峰富士」がPHONOGENIX人脈で最後の作品となりました。

 


【PHONOGENIXについて】
第三期新月解散後、津田さん花本さんはPHONOGENIXとしてサウンドトラック、劇伴、ポストモダンの企画、ニューウェイブバンド等の活動や、ゲーム音楽やCM等、仕事としての音楽制作を行っていました。PHONOGENIXは国内でレーザーディスクの原盤を作成する草分けのチームに参加、初期の通信カラオケのシステムの開発にも関わっています。

 

大きな活動自体は1997年までですが、98年以降はテレビのサントラなどの仕事を行っていきます。2005年にはこの間に作られた津田さんの作品の集大成アルバム「METAGAIA」がPHONOGENIX名義で発表されました。また2005年10月30日には、津田さん、花本さん、鈴木さん、高橋さんの新月メンバーで、PHONOGENIXコンサートが開催されました。
2005年は新月が四半世紀ぶりに再結成され、ボックスセット「新●月●全●史」の制作と未発表曲の新録音が行われた年でもありました。

 

以下2006年1月28日に都内で行われた津田さんインタビューから抜粋します。

 

「新月もPHONOGENIXも、日本ではだいたい最初に新しい事を行っています。新月もそうですが、PHONOGENIXもやる事が早すぎるのです。

 

2005年の時間感覚は1か月くらいの気持ちです。非常にへヴィでした。でも僕はずっと音楽だけを続けるつもりだったので、ブレはないです。
僕は基本的には新し物好き、かっこいいもの好きです。

 

これからは「人間がやっている」事を前に出したいです。いかに制約を自分にかけるかが課題です。制約をかけずに自由にしてしまうと「ホワイトノイズ」になってしまうからです。
これはどういう事かと言いますと、物理学の基本を言っているわけですね。
人間の五感は、まず感受性はとても狭いものでそれぞれの帯域をすべて感受してしまったら、それはカオスとして認識されてしまうという事でもあります。

 

例えば、目は電磁スペクトラムの極く狭い範囲しか「見える」と認識しないので、紫外線や赤外線は「見えない」事になってしまいます。
同じように、音も全ての帯域の極く狭い範囲しか「聞いて」いないわけです。
だいたい20から200000Hzの間と言われていますが、これは全ての「音」の中では、とても「限定的」なものなのです。しかもこの「聞こえる帯域」に均等分布する音波を聞いた場合、それは「ザー」というホワイトノイズで、テレビで言えば「砂嵐」の状態になってしまい、意味というものを為しません。

 

音楽の様に、何等かの意味を為そうという場合は、このような「総体」音では「ホワイトノイズ状態」から逆に制限を加えて削っていく作業が必要になるわけです。
従って音楽とは「自由に制限則を作って削り上げるもの」と言う事が出来る訳です。
全く無制限な自由とは、全く無意味である、という事でもあるのです」

 


【新月再活動へ】1989年〜2000年

 

(つづく)


 【新●月について】

 

日本のプログレッシブ・ロックバンド最高峰の「新●月」は、1976年にその母体が、Serenadeの花本彰さん、HALの津田治彦さん、高橋直哉さんによって結成されました。

 

その3人にHALメンバーの同じ大学仲間であるマルチプレイヤー遠山豊さんを加えた上で、複数のベース・ボーカルのメンバー交代を経て(第一期新月)、その後、Serenadeの鈴木清生さん、北山真さんが加入の6人編成で新月はスタートします(第二期新月前期)。

 

第一期結成前の、当初のリハーサルに、HALオリジナルメンバーで、Serenadeラストライブにサポートで参加しているベースの桜井良行さんが数回参加しています。

 

1979年のレコーディングを期に、遠山豊さんがマネージャーに転向し、現在、私たちが新月オリジナルメンバーと呼んでいるのは、花本彰さん(Key)北山真さん(Vo)津田治彦さん(G)鈴木清生さん(Bs)高橋直哉さん(Drs)の5人のメンバー(第二期新月後期)です。

 

そして、新月は1979年7月25日、オリジナルアルバム「新月/新●月」」を発表、同日25日と26日に、芝ABC会館ホールにてメジャーデビュー記念コンサートを開催します。

 

デビュー後もライブハウスでのコンサートを毎月精力的に行い、セカンドアルバム制作を計画していましたが、原版制作予算の削減に伴い断念します。

 

1980年4月に、ラフォーレ原宿のコンサートを最後に、ベースの鈴木さん、高橋さんが脱退し、それぞれの音楽活動を開始します。
その後、花本さん、北山さん、津田さんは、第三期新月として、新たなメンバーとの試行錯誤の活動と第三期新月でのセカンドアルバム制作を計画、同時に、さまざまな音楽活動、表現活動を行いますが、1981年か82年に、新月は解散します。

 

公に解散宣言が行われたわけではなく、池袋西口で花本さんと北山さんが二人で飲んで、どちらからともなく「もう終わりかな」「終わりにするか」と言ったのが実質解散宣言だったそうです。それが、何年であったかはすでに記憶されていないそうです。
そして新月は四半世紀の沈黙に入ります。

 

月日が流れ、2003年、北山さんが1982年に立ち上げたSNOWレーベルからカセットにて発表された「動物界之智嚢」「文学バンド」のCD化の話から、新月ボックスセット制作の計画が立ち上がります。

 

2004年、新月ボックス「新●月●全●史」の制作中のため、音源発掘中に、新月ディレクター森村寛さんが所持していた、メジャーデビュー時のライブを録音したオープンリールから、カセットへコピーした音源が発見されました。この音源を「新月Live1979」として制作が開始され、花本さん、津田さん、北山さんの3人のメンバー立会いのもと、マスタリングが行われます。

 

同じく2004年、新月メンバー5人全員が25年ぶりに一堂に会します。この日は、全くの偶然により、奇しくも新月メジャーデビュー後丁度四半世紀目の同日7月25日だったそうです。

 

2004年9月5日「新月Live1979」が発表され、続いて12月、北山さんソロアルバム「動物界之智嚢」文学バンド「文学ノススメ」が発表されます。

 

2004年12月17日には「動物界之智嚢」「文学ノススメ」発売記念SNOWパーティが行われ、1988年のアストゥーリアスのコンサート以来、北山さん、花本さん、津田さんの3人がファンの前で演奏を行い、新月曲も演奏されました。

 

2005年には、ボックス収録の新録音のため、25年ぶりに新月メンバー5人による演奏が行われ、「新●月●全●史」に収められている、アルバム「遠き星より」で、その演奏を聴く事が、そしてDVDで、そのリハーサル風景を観る事が出来ます。

 

同じく2005年に、並行して津田さんのPhonogenix名義でのソロアルバム「Metagaia」が発表され、10月30日に、Phonogenixとして、津田さん、花本さん、鈴木さん、高橋さんの4人でライブが行われ、Metagaia収録曲以外に、新月の新曲『生と死』がこのライブで初めて演奏されました。

2005年12月16日に新月ファン待望の、新月未発表曲、Serenade、HAL音源、当時のプロモーション映像・リハーサル映像を含む6枚組のボックスセット「新●月●全●史」が発表されます。

翌2006年4月8日・9日に、26年ぶりに新月オリジナルメンバーによってコンサートが行われました。
再び新月メンバー花本彰さん(Key)、北山真さん(Vo)、津田治彦さん(G)、鈴木清生さん(Bs)、高橋直哉さん(Drs)のこの5人が、ステージで新月の楽曲を演奏したのです。
キーボードサポートは、当時と同じく小久保隆さん、そして幻の新月メンバー清水一登さんです。

 

このコンサートは、リアルタイムファン、後追いファン、そして初めて新月を聴いた人たちにも、高い感銘を与えました。単なる同窓会のレベルではない、当時を凌駕するほどのクオリティの高いライブでした。

このコンサート直後、津田さん、高橋さん所属の新月前身バンドHALとRINGが合体したHAL&RINGのアルバムが制作され、同年、2006年12月26日に、津田治彦さん(g)、高橋直哉さん(drs)、桜井良行さん、松本かよさん(key)、小久保隆さん(key)で、ゲストにHALオリジナルメンバー鎌田洋一さん(key)、新●月花本彰さん(key)を迎えてのコンサートが行われました。

 
そして新●月は、2006年4月のコンサート以来、再び1年半の沈黙に入りました。その間、新月メンバーは定期的に、今後の活動についてミーティングを重ねます。

その結果、2007年10月18日に北山さんが新月を離脱します。
新月の新しい活動について、公式発表が行われました。

 北山さんは、2008年6月2日「動物界之智嚢」に続くインストルメンタルのソロアルバム「植物界之智嚢」を発表します。

そして、その後、真○月を結成、2008年10月25日に清水一登さん(key)、桜井良行さん(bs)、れいちさん(drs)、林隆史さん(g)と真○月コンサートを行い、ご自身もメモトロンやフレームドラム演奏を行い、花本さんとの共作を含む新曲が次々と発表され、集まったファンの前で、作詩家、ボーカリストとしてだけではなく、コンポーザー、演奏者としての魅力を存分に披露し、アルバム発表への期待をさらに高めました。


2013年3月、新●月プロジェクトとして花本さん、津田さん、鈴木さん、高橋さんの新月オリジナルメンバーと、ゲストアーティストを迎えた「新●月プロジェクトvol.1『あの音が聞こえる』@吉祥寺CLUBSEATA」が行われました。新月の旧曲、新曲が披露されました。

2013年6月、「新●月プロジェクトvol.2「響き」が下北沢で開催されました。
津田さん、鈴木さん、花本さんの新●月オリジナルメンバーとゲストアーティストによるアコースティック、新曲、旧曲、実験的な曲、カバー曲の演奏と多彩なイベントでした。

2014年3月29日、クラブチッタ川崎で開催されるJapanese Progressive Rock Fes 2014に、花本さん、津田さん、鈴木さん、高橋さんの四人の新月オリジナルメンバー、がゲストともに「新●月」名義で参加しました。

2015年8月、北山さんは、清水一登さん、桜井良行さん、れいちさん、林隆史さんとの
北山真with真○日で「冷凍睡眠/Cold Sleep」をリリースしました。

2016年3月25日。「新●月●全●史」に収録されている「遠き星より」「OutTakes」が単体で発売されます。デビューコンサートが二枚組のライブアルバム「完●全●再●現 新●月Complete Edition / 1979 Shingetsu Live」 、「新月/新●月」が新たに二つりインサートを加え発売になる事が決定しました。