日本のプログレッシブロック 新●月

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2016/03/22 14:53:53|HAL HAL&RING
HAL
HALオリジナルメンバーは、鎌田洋一さん(key)、津田治彦さん(G)、高橋直哉さん(Drs)、桜井良行さん(Bs)の4人です。
このメンバーの音源は「新●月●全●史」封入の「HAL&Serenade」カップリングアルバムでのみ聴く事が出来ます。

但し、このアルバムの写真に写っているのは、鎌田さん、桜井さん脱退後の第二期メンバーで、右から津田治彦さん(G)、津田裕子さん(key)、手前右が、高橋直哉さん(Drs)、米沢さん(Bs)ですが、アルバム収録曲は、すべて津田さん、高橋さんに鎌田さん、桜井さん参加時の、オリジナルメンバーの演奏によるものです。


新●月の前身バンドはHALとSerenadeの二つのバンドですが、当然、HALもセレナーデも、新月になろう、としてそれぞれのバンドのメンバーが当時活動していたわけではなく、この前身バンド、という表現はあくまで現在から過去を辿った場合、便宜上使わざるをえない言葉です。

同様に、新●月にしても、第一期、第二期、第三期、という、時系列での各活動ごとの呼び名も、現時点から過去へを辿る際での、「便宜上」の表記にすぎません。
これらをふまえた上で、新月前身バンドはHALとセレナーデの二つのバンドです。

新月は、結果的に、HALとセレナーデという二つのバンドのメンバーが一緒になって生まれたわけですが、1976年に、まず、新月の母体は、セレナーデの花本彰さん(Key)、HALの津田治彦さん(G)、HALの高橋直哉さん(Drs)の3人からのスタートでした。

その後何人かのメンバー候補を試み、紆余曲折の結果、セレナーデの鈴木清生さん(Bs)、セレナーデの北山真さん(Vo)が加入し、セレナーデメンバーとHALメンバーの5人で結成されたメンバーで「新月/新●月」を発表、メジャー・デビューしました。


【HAL以前】
1970年。HALのルーツは、まず津田さんと鎌田さんの出会いです。二人は東京都立富士高校のクラスメイトで、鎌田さんが中学時代から活動していたバンド「ターンテーブルシステム」へ津田さんが加入し、音楽活動が始まります。

また、鎌田さん、津田さんが、入学時の富士高校は、かつて女子高だった名残なのか、音楽の部活動といえば管弦楽部しかなく、ここで、二人は学校側との激しい攻防戦の末、軽音楽同好会立ち上げに成功します。もちろん、実質はロック同好会!

1971年、高校2年生の頃は、ジェファーソン・エアプレイン、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイドやブルー・チアー、グランドファンク、クリームなどを爆音で演奏し、津田さんはすでに髪が腰近くまであり、鎌田さんはパンクないでたち(!)でのベース担当で、ビジュアルもまさにロック!

一方、鎌田さんは、エルトン・ジョンにも一時傾倒し、音楽室のピアノを演奏しながら、彼の曲を弾き語りしていました。『Sixty Years On』がお気に入りだったそうです。
また、EL&Pのレコードを2、3回聴いただけで、キース・エマーソンと全く同じ事をピアノで弾きだすような多才ぶりでした。

1972年、世田谷区成城にある砧公民館で、鎌田さん、津田さん共演の初のコンサートが行われます。
当時のレパートリーは「ハードロック+ヘヴィメタル+プログレ」といった内容で、「アイアン・バタフライ」の曲が4曲含まれていました。ここで、17分を超える不朽の名作『イン・ナ・ガダダヴィダ』がフル演奏で行われました。その演奏は圧巻だったそうです。また『バタフライ・ブルー』はまさにプログレ!

また、二人は、鎌田さんの自宅で手当たり次第に耳でコピーした曲を、何時間も弾き続け、お互いに全く会話をしないような日々がありました。

1973年。鎌田さんは、突然譜面を書き出します。
1ページ目を津田さんがベース、鎌田さんがピアノで弾いてみると、それは聴いた事のない、ただ、少しEL&Pに近い曲で、いつの間にか完成したその曲のタイトルは、『サー・ボーデンハウゼン』。アーサー・マッケンの作品の登場人物の名がつけられました。

そして1974年には『魔人カルナディスの追憶』が作曲されます。鎌田さんのオリジナル曲は4曲。どの曲も同じようなプロセスで作られ、そしてどの曲も、誰も聴いた事のない曲でした。

並行して、津田さんと鎌田さんは東京錦糸町のキャバレー「カントリークラブ」の箱バン(専属バンド)で「修行」を積みます。

また、この頃青山学院高等部に在籍していた桜井良行さんは、後の新月レコーディングディレクター森村寛さんたちと「レガリア」というバンドを組み、森村さんが在籍していた麻布高校の学園祭に出演します。
そのための練習場所は青山学院大学部の軽音楽部の部室で行われており、当時から、すでに桜井さんの高い演奏技術は大学部にも知られていました。

【HAL結成】

1975年4月。津田さんは青山学院大学に入学します。
いろいろな軽音楽クラブを覗き、そこで、ひときわオーラを放っていた高橋直哉さんとバッテリーを組むことに(勝手に)決め、高橋さんが在籍する軽音楽部へ入部します。

高橋さんは、中学時代から本格的にバンド活動を始め、高校時代は、クリームの完全コピーに明け暮れ、ビートルズ、ジミヘン、コロシアム、桜井さんによって、ソフトマシーンを知り、カンタベリー系へと傾倒していました。

津田さんは、高橋さんが活動していた「ベラドンナ」に加入し、
まずは、高橋さん、津田さんの二人の音楽活動が始まりました。

同じく1975年4月。福生では、花本さん(Key)、北山さん(Vo)、高津さん(G)、鈴木さん(Bs)、小松さん(Drs)の5人で新しいバンドが誕生します。
バンド名は「barbecue」。のちに「セレナーデ」と改名しますが、当時レパートリーにしていた「スージーQ」のパロディがバンド名になりました。

高橋さん津田さんの「ベラドンナ」はキーボード、ベースメンバーの変動に伴い、活動休止状態になってしまいます。
そんなある日、高橋さんは、津田さんから渡された、眠ったままの鎌田さん作曲のデモを録音したカセットテープを聴きます。そして、そのユニークな楽曲を、バンドで演奏する事になったのです。

1975年5月、高橋さん(Drs)、津田さん(G)、鎌田さん(Key)の三人は、残りのベーシスト選びは、かなり高度な技術レベルの持ち主でなければ演奏が難しいとの事から、高校時代から、その高度な演奏技術が知られていた、やはり4月から大学部へ入学した桜井良行さんに声をかけ、この4人で新バンドが結成されます。
バンド名は「HAL」。
「春」、そしてアーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」に登場するコンピューターHALに掛けて名付けられました。

【HAL&Serenade】

1975年5月。HALの初ライブは「東京大学五月祭」です。桜井さんは、覚えたての『サー・ボーデンハウゼン』『魔人カルナディスの追憶』が、かなり好感触を得て、自信を持った記憶があるそうです。
但し、津田さんは、船便で待ちに待ったビンテージもののマーシャルのヘッドアンプを東大生に落とされてしまい、後に新月で「仏の津田」とまで言われた温厚な津田さんが、珍しく本気で怒っていた事を、メンバー全員が記憶しているそうです。

一方、barbecueは、ひたすらオリジナルの曲作りと練習に明け暮れていました。ライブも録音の予定もないまま、楽曲の完成を目指し、メンバー2人の住居兼練習場所で、同じ曲を何度も何度も練習していました。
メンバーのアルバイト先はビアガーデンで、ここで洋楽のレパートリーを演奏することが、人前でのライブ演奏でした。

HALの二度目のライブは9月か10月、新宿歌舞伎町コマ劇場上の大型ディスコ「ビックトゥゲザー」でした。
若者の音楽育成の場として、昼間なら自由に使って良いという団体からの斡旋で、練習とライブをこのディスコで行うことになりました。

この「ビックトゥゲザー」でのライブは、HALと、HAL結成前に高橋直哉さんと津田治彦さんが結成していた「ベラドンナ」の両方のバンドで出演します。
余談ですが、「セレナーデ」「HAL」の二バンドに加え、「ベラドンナ」が新月前身バンドという、やや事実と異なる記事を散見しますが、おそらくこのライブにHALメンバーが参加していた両方のバンドが出演したためと思われます。

ライブ後「ビックトゥゲザー」から再び練習場所は青山学院大学のサークルの部室へ移り、リハーサルが行われます。

11月3日。HALは青山学院大学学祭で3回目のライブを行います。この時点では、まだメンバーは譜面を広げて演奏を行っていたそうです。

11月8日。barbecueは、初のライブを行います。場所は、銀座十字屋2階「3Point-D.Q」でした。
当時のオリジナル曲全てが演奏されたそうですが、『殺意への船出PART1』『殺意への船出PART2』のどちからかと、新曲『青い青空』が演奏されたかどうかは不明です。

同じく11月。HALは4回目のライブを行います。毎年11月の第3日曜日に行われる、調布市の電気通信大学学園祭に、「コスモスファクトリー」の前座として出演します。

このライブで『トリプレットカラーズ』が初めてライブで演奏されます。「HAL&Serenade」に収録されているライブ音源は、この電通大ライブでのものです。
PAは、当時としては画期的な4チャンネルが使用されました。

このライブ直後、桜井良行さんが脱退。同時に鎌田洋一さんが脱退します。電通大ライブがHALオリジナルメンバーでのラストライブになりました。

barbecueは12月にクリスマスコンサート用バンドとしてライブを行います。オリジナル曲は演奏されず、洋楽ナンバーにクリスマスソングが何曲が演奏されました。
その後、ベースの鈴木清生さんが脱退します。

第二期HALメンバーは、津田さん、高橋さんのオリジナルメンバーに、津田さんの妹さん裕子さん(key)、青山学院大学の米沢さん(BS)を迎え、活動します。
HALは、「ガソリンアレイ」というライブハウスに何度か出演し、このライブハウスの常連で、のちFOOLS MATE初代編集長の北村昌士さんと知り合います。

一方、barbecueは、バンド名をSerenadeと改名します。HALとセレナーデは、お互いの演奏をカセットテープを通じて、聴いていました。

1976年8月13日(金)目黒区民会館で、HALとセレナーデは他の2バンドと共に、ジョイントコンサートを行い、お互いの演奏を、初めて生で観ることになります。
鈴木さん脱退後、セレナーデのベースのサポートメンバーとして、HALを脱退した桜井良行さんが参加しています。

このライブ直後、花本彰さんがセレナーデを脱退、そしてHALの津田治彦さん、高橋直哉さんと、新しいバンドがスタートします。
新月の母体の誕生です。この時点では、まだ、バンド名はありませんでした。

【HALについて】

HALオリジナルメンバーでの活動そのものは1975年5月から11月までのわずか7ヶ月ですが、72年から73年に作曲された鎌田さんの楽曲と、桜井さんの『トリプレットカラーズ』が、4回のライブで演奏されました。

HALの演奏は、全てがアドリブ無しのスコアを守り、作曲者である鎌田さんの絶対的な権限下にあり、オーケストラの鬼の指揮者のごとくであったそうです。

HALは、主に都市部に生まれ育ったメンバーたちで構成されており、中学校、高校、大学時代とロックを通じての人脈が広がっていました。その間、メンバーたちが形成した人脈が、後の新月人脈にも大きく影響を与えています。

杉並区立大宮中学校で、ターンテーブルシステムズというバンドを組んでいた鎌田さんは、公民館で数回コンサートを開催、このドラマー田中文彦さんは、現在もジャズドラマーとして活躍しています。そして、この中学校の一級下に、後に新月サポートメンバーとなる小久保隆さんがいました。

鎌田さん、津田さんが通う都立富士高校へ小久保さんが入学し、管弦楽部と掛け持ちで、鎌田さん津田さんが立ち上げた軽音楽部に小久保さんが入部、クラシックしか知らなかった無垢な小久保少年に、鎌田さん津田さんの二人の先輩がヘンな影響を与え、「人生を狂わされた(笑)」(小久保さん:談)。

余談ですが、小久保さんの同級生の平野文さんは、後に「ラムちゃん」の声優さんとして有名な方です。ラジオのパーソナリティをされた時、小久保さんがプレゼントした「新月/新●月」を、番組の趣旨とは全くかけ離れていたのにも関わらず、友情から『白唇』をオンエアして下さったそうです。ただ、この時、しろくちびる、の読み方が分からず、苦肉の策で『ホワイトリップ』と紹介されたそうです。

また、小久保さんの同級生に、松本かよさんがいます。松本さんは、後に、小久保さん、新月の鈴木清生さんと共に「タペストリー」を結成します。

HALの5曲の音源は、電気通信大学の学祭のライブのもので、電通大学生だった小久保さんが、強力にサポートをしていました。PAは当時としては画期的な4チャンネルを使用し、鎌田さんの音を小久保さんが廻していました。この学祭で、小久保さん自身は、BLIZARDというバンドで、ブラックサバスを演奏しています。

HALオリジナルメンバーの楽曲は、当時の関係者とライブを観たわずかな人たちにしか知られていませんでしたが、この貴重な音源を所持していたのも小久保さんです。
「新●月●全●史」制作に伴い、小久保さんのアトリエから発見されたHAL音源は、こうして30年の時を経て、多くの人に耳に触れることとなったのです。

桜井さんは、小学校時代からの友人和田アキラさん(プリズム)との共通の友人を通じて高校時代、後の新月サポートメンバー清水一登さんと知り合います。二人は、前衛音楽・フリーインプロビゼーション中心の、こつこつと録音した曲を編集してはテープを作る、というユニット「ガラパゴス」を結成します。。

そして同時に、後の新月ディレクター森村寛さんたちと結成した、HAL加入のきっかけになったバンド「レガリア」で、アバンギャルド・ジャズ・ロックなオリジナル曲を演奏していました。

HAL加入後も桜井さんは、清水一登さんとの録音・編集のユニット「ガラパゴス」と、清水一登さん、田中英介さん、後藤雅夫さん、寺尾史朗さんで組んだ、ハットフィールド、ヘンリーカウ、ソフトマシーン、ニュークリアスを中心にその他オリジナルや、ニューミュージック、歌謡曲までなんでもやりたい事は何でもやるコミックバンド的なバンド、後の「すくわーむ」の活動を並行して行っていました。

また、「ガラパゴス」名義でのバンド活動は一度だけ行われ、それは、桜井さん、清水さん、後藤さん、田中さんのメンバーで、1978年のお茶の水全電通ホールの「新月」「美狂乱」などとのジョイントコンサート「FROM THE NEW WORLD」での演奏でした。

75年の桜井さん、鎌田さんの脱退後、HALは高橋さん、津田さんと、新たなメンバーとの第二期の活動に入ります。この時期、HALメンバーと「フールズメイト」初代編集長、北村昌士さんが知り合います。北村さんは、新月メジャーデビュー前後、フールズメイト誌にて、新月を強力にバックアップし、プログレファンに新月の名を刻みつけました。

第二期HALのキーボード津田裕子さんは、後、新月ライブでは欠かせないキーボードサポートメンバーとなります。

1976年8月に行われた目黒での、セレナーデ、HALも参加したイベント後、花本さん、高橋さん、津田さんが合体し、新バンドが結成されるわけですが、このバンド結成には、HALメンバー二人が衝撃を受けた、ある曲の存在なくしては、ありえませんでした。

その曲とは、セレナーデの『殺意への船出PART2』。

「この曲を演ろうぜ」
HALメンバー二人の、この思いが新バンド結成の引き金となります。
そして花本さんの「世界に通用するプロフェッショナルなグループを作りたい」という思いとが、高橋さん、津田さんと強く結びつきました。

自由度が高かったというセレナーデの楽曲の中で、唯一自由度のない曲『殺意への船出PART2』。

この選ばれた大曲『殺意への船出PART2』は、日本のプログレッシブロックの最高峰である偉大な新しいバンドを誕生させることとなりました。