★ ≪トキメ気≫の[iBOX] ★ [男と女の風景] (短編小説集)

これは、大人のラブストーリーです。 我が人生に、夢よ! もう一度・・!  いつまでも、恋も愛も、いっぱい欲しい。 そんなバーチャル・ラブを、どうぞ・・。 
 
2019/05/23|その他
◇深層に棲むオニ◇ [男と女の風景141]
 
              2019523(木) 00:00時 更新  
 
  我が家のベランダ・ガーデン
 
 今回の写真は、私の好きな斑入りの鉢を紹介します。
 斑入りは、太陽光の赤外線などによる突然変異だと、言われています。
 でも、それだけに、ある種の珍品だと思っています。

 
  ≪写真・左・・ホトトギス≫
 
  ≪写真・中・・クマヤナギ≫
 この≪熊柳≫は、柳ではなくて、クロウメモドキ科のツル性で、他の木に寄生して10メートルにも成長するようです。
 夏に枝先に黄白色の花を咲かせて、秋に小さな実の群生をつけます。
 これは、斑入りの苗木であり、観賞用かと思われます。
 
  ≪写真、右・・スミレ≫
 

                      [男と女の風景・141]
                         ― その1 −

 
  ◇ 深層に棲むオニ ◇
 
 ある日、船越は、高校の同級生でだった猪俣と、久々に会った。
 二人はサッカー部の仲間だったが、大学も、会社も違っていた。
 しかも、同じ多忙なサラリーマンだったから、会う機会もなくて、高校を卒業して以来、34年振りの再会だった。
 お互いに、昔の面影はまだ残っていたし、話し方や個性なども昔のままだった。
 焼き鳥屋で飲んで、当時の懐かしい思い出話や、仲間たちの消息を、もう二時間も話し込んでいた。
 そして、猪俣が「次はオレの店に行こう」と言い出して、案内された。
 
 その≪プリン≫というスナックは、照明が薄暗くて隠れ家のような、こじんまりとした店だった。
 二人がカウンターに座るなり、ママが目を丸くして驚くと、船越をジッと覗き込んできた。
「もしかして、船越さんですよね」
「エッ、ママ、知ってるの・・」
 常連の猪俣は、初めて連れて来た船越を、高校時代の親友として紹介しようとしていたから、驚いた。
「ええ、僕は船越ですが」
 突然、自分の名前を言われて、船越はキツネに摘ままれたように、キョトンとしている。
「オイ、君たち知り合いだったのか」
 黙って見ていた猪俣が、いきなり割り込んできた。
「いや、僕は初対面だよ」
 船越は困ったような顔をして、猪俣に助けを求めた。
 
「船越さんは、昔と変わってないですね」
「でも、なんで、僕の名前を・・。だって、多分、君とは会ったことがないと思うけど・・」
「ええ、そうですよね。あの頃は、あなたの前には先輩の女性たちがいて、近寄れなかったんです」
 そう言われても、船越には、全く身に覚えがなかった。
「ええ、20年前の、私が10代の最後の時でした」
「エーッ、チョッと、待ってくれよ。20年も前って言ったら、僕は32才だよ。そんなに遠い昔なのか。それで、その店はどこなの・・」
「ええ、アルバトロスです」
「あぁぁ、あの店には行ってたな。それで、君の名前は・・」
「はい、佳代です」
 そう言われても船越には、ピンとこなかったから、まさに初顔合わせだった。
 しかし、全くの偶然とはいえ、なにかの始まりかなと思わせる、そんな予感めいたものを感じた。
 
「ええ、あの頃もハイセンスなスーツをキッチリ決めて、カッコ良かったんです。私は遠くから、あなたに憧れていました」
――この女、遠くから僕を見ていたって・・。
  そんなこと、言われてもなぁ。
  でも、僕はカウンターで、単に飲んでいただけだよ。
  女性を口説くなんて、そんな気は全くなかったし・・。
「あの時、薫(かおり)さんと言うピアノさんがいましたよね」
「ああ、名前は忘れたけど、目のクリッとした可愛い子だったな」
「ええ、そうです」
 佳代はそう言うと、昔を懐かしむように、船越をジッと見ていた
――そういえば、ピアノを弾く女性がいて、
  そう、その妹もカウンターにいたな。

  どこか大企業の、社長の令嬢だって、聞いたよ。
  妹は、管理栄養士を目指しているって、言ってたな。
  ああ、そうだ。あの妹に、ネクタイを取られたんだ。
  そう、とにかくそれが欲しいって頑張ったから・・。
  サラリーマンのシンボル、そう、ネクタイを仕方なく外したんだ。
  あれは緑を基調としたタータン・チェックの柄で、
  自分も、すごく気に入っていたんだ。
  でも、どうも若い子にも、人気があったらしい。
  だって、あの子、とにかく欲しいの一点張りだったから・・。
 船越は、蘇ってきた遠い昔の思い出に、独り浸っていた。
――確かに、他にも寄ってきた女の子がいたな。
   まぁ、あの頃は、主任時代で、怖いもの知らずだったから、
   自由奔放で飲んでいたよ。
 
「ねえ、慶ちゃん、この人、素敵でしょ。20年前に憧れた人なの・・。こんなインテリ、見てるだけでグッと来くるよね」
「オイ、そんなに褒めたってなにも出ないぞ」
「ええ、いいですよ」
 猪俣も船越も、普通のサラリーマンであり、制服であるスーツを着ているだけだと思っている。
「でも、こんなスマートに着こなす人って、最高よ」
 慶子は、船越をジッと見ていると、「ええ、確かにそうですね。ズキンと心臓に突き刺さる紳士ですね」と賛同していた。
 そんな話が終わって、やっと気づいたように、ママが二人のために水割りを作り出した。
 バイトの慶子は、小顔な上に、ショートカットの髪形で、若いと言うより、純情な中学生のようにはつらつとしていた。
 見るともなしに見ていた船越は、こんな地味で控え目な女性が、好きなタイプだった。
――こんないい女性が、水商売をしてるなんて・・。
  ママより、よっぽど慶子の方がいいな。
  だって、見るからに理知的で、聡明な感じがするんだよ。
  目がクリクリッとして、可愛らしいし・・。
  でも、多分、四十代の半ばかな。
  きっと、結婚をしていて、子供もいそうだな。
  まぁ、この店で勤めるには、なにかの理由があるんだろう。
  でも、ギャップがあって、ナゾめいた女性だよ。
 
 二人が乾杯すると、猪俣も慶子がお気に入りなのか、慶子のことを「いい女だ」と自慢げに語り出した。
 だが、肝心のプライベートなことは、猪俣もあまり知らないようで、その部分はブラック・ボックスのままだった。
 船越がさり気なく聞くと、慶子は水曜、土曜と、週に2回しか来ないとのことだった。
「でも、この慶ちゃん、食事はどうって、誘っても、時間が取れないから、って、いつもノーサンキューなんだ」
「ごめんなさい。でも、本当に、予定が立てられないんです」
 慶子は、申し訳なさそうに、手を合わせて詫びた。
「まぁ、色々、事情があるんでしょ」
「しかもさぁ、お酒も付き合ってくれないんだ」
 愚痴を溢すように言う猪俣は、慶子にご執心のようだったが、本人はあくまでも自分のスタイルを崩さなかった。
 
 それから二週間後の水曜日、船越は勤め先の新宿からライナーで藤沢まで帰ってきた。
 職場の同僚と新宿の≪思い出横丁≫で軽く飲んできたから、藤沢に着いたのは、もう九時を回っていた。
 船越はJRの改札を出て、小田急・湘南GATEの2階にある江ノ電の改札口に向かおうとしていた。
 だが、ふと立ち止まって、もっと飲むかどうか思案をしていた時だった。
 何気に振り向いた時、偶然、慶子を見てしまった。
慶子は背が高くて、小顔にショートカットだったから、遠くから見ても一目瞭然だった。
「アアッ、慶子さんだ」
 上下が黒のスーツで、颯爽と歩いてきたので、思わず驚いて指を差してしまった。
 慶子もそれに気付いて、笑顔を見せると船越に近寄って来た。
「今、お帰りですか」
「ええ、チョッと残業がありまして」
「と言うことは、OLさんで・・」
「ええ、まぁ、そんなところです」
「家は、江ノ電の沿線ですか」
「ええ、海岸公園です」
「そうですか。僕は腰越の山の方ですが・・」
 慶子は、あまり話したくないように、ポツリポツリとしか言わなかった。
「どうですか。軽く飲みませんか」
「ああ・・、そうですね」
 船越は、何気に軽く誘ったつもりだったが、慶子が酒を飲まないのを、言ってしまってから気がついた。
 だが、思わぬ返事が返ってきた。
「ウーン、それでは軽く・・」
「エッ、いいんですか。先日は、酒を飲まないって・・」
「ええ、私は、あのお店では、お酒を飲まないと決めているんです」
「あぁ、そういうことか・・。では、僕のお店に案内しますよ」
 
 それから、船越は、マタリビルにある≪バンブー≫に案内した。
 その店は、船越が前のママの時に行き始めてから、もう10年以上にもなる小さなスナックである。
 店の雰囲気も客たちも、明るくて自由な親近感があり、しかも飲み代が安いのだ。
 また、マスターがギタリストで、ライブもやるし、生オケもやってくれるから、結構エンジョイもできる。
 店に入ると、水曜日にもかかわらず、カウンターは中年の男達でいっぱいだった。
 人のいいマスターが、チョッとオーバーに「オオー、船越さん、いらっしゃいませ」と叫ぶと、カウンターの客たちが一斉に振り向いた。
「皆さん、こんばんは」
 船越はそう挨拶をすると、椅子もテーブルも高い二人用の席で、向かい合うことにした。
 
 船越のボトルは、ファイティング・クックというバーボンだったが、慶子はそれでいいと言う。
「なぁんだ。飲めるんじゃないですか」
「ええ、今日は、そんな気分なんです」
「なにか、あったんですか」
「ええ、ある委員会の諮問会議で、予算編成用の資料を提出したら、それがボツになりましてね。また作り直しです」
「ほう、すごい仕事をしているんですね」
「いえ、県の福祉課でして・・」
――そうか、県庁の職員なんだ。
  もしかして、キャリア・ウーマンかも・・。
「ええ、委員の皆さんは、言いたい放題で、議論百出でして、なにも纏まらなかったんです」
 
 そこに、バーボンの水割りが届いて、お互いに会釈をすると、「お疲れ様」と声を掛け合った。
 すると、慶子は、気分がムシャクシャしていたのか、一気にかなりの量を飲んだ。
――でも、この人、プライベートはなにも喋らないと思ったけど・・。
  まぁ、昼間の会議が、余程アタマに来てるんだな。
「でも、資料の作り直しだなんて、大変だね。その気持、判りますよ。僕も主任時代は、よくあったから」
「そうなんですよね。主任は実務で勝負ですから・・」
――なぁんだ。ビジネスのことだって、普通に話せるよ。
  話し相手としては、結構、フランクだね。
 船越は、先日、慶子が付き合ってくれないと言う猪俣の愚痴が、ウソのように思えた。
 だが、初対面に近い慶子には、身元調査のような質問は避けるように、気を配って抑えていた。
――こんなに頭の切れる人は、根掘り葉掘り聞いてはいけない。
  そう、さり気なく誘導すれば、自分から語り出すものなんだ。
 船越は、長年、仕事で多くの人と接して来たから、経験上、そんな知恵がついていた。
――そうか。あの猪俣は、積極的に攻めたのかも・・。
  あのせっかちな性格は、直ってないな。
  だって、プライドの高い人ほど、拒絶反応が強いんだよ。
  だから、突き放すほうが、いいんだ。
  そう、引くほどに、相手は押してくるんだ。
「でも、あの店に週に二回とはいえ、大変ですね」
「ええ、今、両親の実家で暮らしているんですけど、働き手は私だけでして・・。ええ、娘も進学を控えてますし・・」
「それでは、一家の主(あるじ)じゃあ、ないですか」
 船越は、さり気なく褒めて、誘導しながら、慶子に喋らせていた。
 
 だが、慶子には、誰にも言えないもうひとつの理由があった。
 それは、思春期の頃から満たされなかった≪心の空白≫であり、それを満たす愛を求めて、男たちの社会を漂流していたのだ。
 しかも、知的な割には、その原因を自覚していなかった。
 そのため、それが無意識の漂流であり、ただそうしたいという願望だけで行動していた。
 だから慶子は、男性不信なのに、でも、実は男性を求めていたのだ。
 しかも、そんな二律背反な自分に、実は気がついていなかった。
 そして慶子は、かなり感覚的だったから、直感的に嫌な男性には、ただ皮膚感覚が拒絶反応を起こしていたのである。
 
 なにを考えていたのか、慶子は、フイッとグラスを掴むと、またグイグイと飲んでいる。
「アッ、今、話したことは、お店のママには内緒で」
「ああ、そこは心得てるから・・」
 船越は、カウンターの中にいる若いママに、手を挙げて合図を送った。
 飛んできたママに、慶子の空いたグラスを指差すと、水割りのお代りを頼んだ。
 すると慶子が、あの丸くて澄んだ目で船越を見つめて、なにか言いたそうだった。
「ああ、遠慮なくどうぞ。僕はもう飲んできたので、あとはマイペースで行きますから・・」
 船越は、慶子の意図を察して、自分を気にしないようにと断った。
 
「さっき、実家で両親と暮らしてる、って・・」
「ええ、夫とは離婚しましてね」
「ああ、そうなんだ」
 船越は、グラスを持って飲んだフリをしながら、その話の続きは、あえて追及しなかった。
「でも、もう七年になります」
 慶子が、そう続けて話しても、船越はグラスを口につけたまま、黙って俯いていた。
 慶子は、二杯目の水割りも、無意識に半分以上飲んでいたから、顔は火照ってきて、もう酔いが回り始めていた。
「ええ、セックス・バイオレンスが酷くて・・」
――エッ、性暴力、だって・・。
 話の内容はまさに衝撃的だったが、船越は慶子と目を合わせないようにして、黙って頷くだけだった。
「ええ、夜は、高圧的で・・、命令調で・・。ロープで手足を縛って・・、真っ赤なローソクを裸に垂らして・・、まさに異常なサディストでした」
そこで、また水割りをグイッと飲むと、船越をジッと見ている。
「しかも、恐怖で怯えていた私を、ええ・・、アイツは、ほくそ笑んで、楽しんでいたのです」
 髪が短くて少女のような慶子は、まるで独り言のように、ぼそぼそと呟いていた。
 そんな慶子を、視線の隅で感じていた船越は、思わずテーブル越しに両手を差し出すと、手をそっと包んでやった。
 その気持は、余計な言葉や慰めよりも、心からの温もりとして、手から手へと繋がっていった。
 慶子は船越の手に包まれて、その優しさに思わず泪が湧いきた。
 そして、泪が頬を伝わると、慌ててバッグからティシュ―を取り出した。
「すみません。失礼しました」
――ああ、続きはもう話さなくてもいいよ。
  でも、そうか。自分の心の闇から、オニを追放したかったのか。
  もし、その残酷さを誰かに判ってもらいたいなら、
  僕は赤の他人だから、聞いてやるよ。
 それから暫くの間、二人には言葉が出なかった。
 だが船越は、居たたまれない思いが募って、慶子をギュッと抱きしめてやりたかった。
 
「僕が思うには、多分、あなたの旦那の両親は、離婚しているでしょう」
「エッ」
 慶子は、なにかに弾かれたようにビクッと驚いた。
 そして、怖い目で船越を見据えたまま、「ええ、実はそうなんです。でも理由は判りません」と言った。
「彼は、生活面で多分、母に支配されていたんでしょう。これも推測ですが、母から性的暴力を受けたか、あるいは、夫婦生活がそんなだった家庭にいて、それを目撃したのでは・・」
 船越は、下を向いたまま、頭に浮かぶ想念を語っていた。
「そう、暴力映画を何回か見ただけでは、暴力を否定するんです。でも、暴力で戦うゲームのように日常的にやるとか、何度も暴行されると、やがてマヒして、それを肯定するようになるんです」
 慶子は、一言も聞き逃すまいとして、船越を食い入るように見ていた。
「一般に、幼児期や子供の頃、暴力を見たり、聞いたり、暴行を実際に受けたりした人しか、他人に暴行をするという発想が、絶対に頭には浮かばないんです。だって、そんな行為を知らないし、実体験をしていないからです。でも、その実体験を知る者は、親から子供へと虐待が連鎖するんです」
 じっと見つめていた慶子は、納得したとばかりに、「ホゥ・・」と、小さく溜息を吐いた。
「彼は多分、自分が虐待の被害者、だったんです。だから、彼の心の闇にオニが住んでいた」
「エッ・・、ああ、そういうことですか」
「そのため、彼は、母親に抵抗できなかった分、あなたを支配して、逆襲したのでは・・。これは、あくまでも単なる推測ですがね」
「ハァ、でも、やっと納得できました」
 
 すると、男たちの四人組が、店に入ってきた。
 入口に近い丸テーブルに陣取ったグループは、どうも同じ職場のメンバーのようだった。
「マスター、ギターをお願いします」
 そう言ったのは、時々この店で顔を合わす大林だった。
「実は、この若者が、近々結婚するんです。それで今宵は、彼のために祝福の歌を捧げたいんです」
 それを聞いて、船越が振り返ると、赤いチェックのシャツを着た若者が、遠慮がちに頷いた。
 そして、各々の飲み物を掲げると、高らかに乾杯して「幸せになれよ」と掛け声が飛び交った。
――ああ、同じ職場の先輩たちなんだろうな。
  そう、こういう飲み会が、いかにもジャパニーズなんだ。
  家族のように、お互いを讃え合う。
  そう、それが、日本の美しい風習なんだよ。
 船越が、そんなことを思っていると、マスターが譜面や歌詞カードをセットして、さっそくギターが鳴り出した。
 
 そして、ギターに合わせて皆が歌い出したのは、なんと、長淵剛の≪乾杯≫だった。
 男たちの低い声で始まったが、やがて音程が取れ始めたのか、四人の大合唱になっていった。
 そして、カウンターにいた客が、ボンゴを打ち鳴らして、小気味のいいリズムを取り始めたのだ
「ああ、いいな。この、職場ぐるみの祝福・・。この仲間意識がね、これが日本の会社を支えてるんだ」
 そして、カウンターの客も、皆に合わせて歌い始めた。
 船越は、皆が盛り上がるそんな風景を、心から微笑ましく見ていた。
 しかも、こんな祝福の合唱で大同団結する場面に出っくわして、内心「ああ、こんなにいい酒を飲ませてくれて、有難う」と感動していた。
 
 だが、慶子はなにかに堪えるように、沈痛な面持ちで聞いていた。
「ああ、これは、昔に通り過ぎた私の過去形です。だから、私も祝福してあげたいな」
 慶子は悲壮な思いでそう言うと、一緒に合唱に加わっていった。
 そして、目を潤ませながら懸命に声を張り上げて、過去の思い出に熱唱していた。
――ああ、この女、未だにあの幸せの絶頂を願っているのか。
  求めても、見果てぬ夢なのに・・。
  これって、人間が願っても得られない哀れさかも・・。
  そう、そんなセンチメンタリズムなのかもな。
 慶子が大声で叫ぶように歌う、その横顔には、未だに引き摺っている哀れさがあった。
そんな気持が、船越にはジーンと伝わってきたから、なんとも辛かった。
――ああ、ハグをしてやりたいけど・・、
  でも、それは、ひと時の慰めでしかないんだよな。
  そう、ここは、慶子が自分と戦うしかないんだ。
 
 お店にいる全員の客が唱和して、大合唱が終わると、皆が盛大な拍手を送った。
 すると、当の本人が立ち上がって、「皆さん、ありがとうございます」と頭を下げた。
――ああ、こんな店、どこにもないよな。
  だって、赤の他人も、祝福してくれるなんてさ。
  ああ・・、こんな風景が、昔の歌声喫茶にもあったな。
  そう、これが日本流なんだ。
 船越は、こんなに店全体が盛り上がった雰囲気に、気分が高揚して酔い痴れていった。
 だが、同時に、結婚が不幸せだったと悔いて、自分と戦っている慶子の遣る瀬無い気持が見えて、感傷的にもなっていた。
――おおい、慶子、頑張れ。
  僕は、なにも出来ないけど、応援してるから・・。
 船越は、ここは飲んで、酔っ払って、後は成行きに任せるしかないと、そんな放任する気分になっていた。
 
 それから二人は、また新しい水割りが届くと、にこやかに乾杯した。
「船越さん、こんな素敵なお酒、有難うございます」
「そうだね。今日は、偶然の出会いも良かったけど、この大合唱の偶然もたまらないね」
「ええ、船越さんには、元気をもらいましたし・・」
「エッ、そうかな」
「ええ、両手を優しく包んで戴いて、エネルギーとハートをもらいました」
 慶子は、改めて手を差し出すと、握手を求めてきた。
「ええ、男性の優しさを、初めて感じたような気がします」
 だが船越は、もっと慶子に語らせようと、また黙ったまま、さり気なく俯いて聞いていた。
 
                               ― つづく ―
 
 





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