60代 なるようになるさ!なんとかなるさ!なんとかするさ!

5年の時間が過ぎたよ 何も変化なくこんなもんでしょう
 
2017/07/08 13:58:00|ぶらぶら歩き
名前だけは知っていたが 満蒙開拓

阿智川の傍に 建つのが

”満蒙開拓平和記念館”

名前だけは 知っていたので

立ち寄ることに


内部は撮影禁止なので

平塚の図書館から 満蒙関連の本を

借りて 読んだ

本は 平塚で生まれ 育った方の執筆


大正から 昭和にかけて

阿智村(当時は会地村)では

特産の ”まゆ”の値段が 下がって

困窮を 極めてた

そこに 満州事変 満州国の建設という

国策が 実行された


阿智村で 満蒙開拓移民の話が出るのは

昭和18年 村長が提案

戦時下 食料 寄付金 油 金属の供出要請が

長野県を通じて 来ていたが

もはや 出せるものがなくなって

人を供出するしかないと

村長が 満蒙開拓団の提案


昭和19年5月 先遣隊が 飯田駅から出発

このとき 村長が団長になるはずだったが

最初に 降りた

村会議員が 団長を受けた


昭和19年12月〜20年3月に 団員を募集

まとめ役を 引き受けさせられたのが 長岳寺住職

村長の説得があった

この家族 最後は悲惨な結果に

住職: シベリヤ抑留
母親: 逃避行中に死亡
長女(4歳): 残留孤児
次女(1歳): 逃避行中に死亡


昭和20年5月 飯田駅から満州に出発

39家族 142名 (満蒙最後の開拓団に)

5月8日 開拓地に到着

このとき すでに関東軍の兵力は南方へ移動

昭和20年2月 ソ連軍はシベリアに兵力輸送

同年6月から 満州侵攻作戦を計画
         (兵力157万人)

同年8月2日 関東軍の放送では

関東軍は磐石、開拓団は安んじて、生業にはげむよう

同年8月9日 ソ連軍が侵攻開始

同年8月10日 逃避行開始 雨の中を歩いて

同年8月24日 1700人死亡

同年9月3日 男性はソ連軍に連行 母親・子供は自決

こんな経過です


妹を背中におぶった 8歳ぐらいの女の子

この後 生き延びたのでしょうか?

両親は いないようだ


到着3ケ月後に ソ連軍が侵攻だ (終戦でもある)

関東軍 日本軍部 日本政府 長野県は

知っていたのでは?

国民の安全を 守るべき組織だが

結局 誰も責任を取ってない

いや 友達から聞いた話では

村長さんは 自殺したらしい

この村で 生きていけないでしょうね

いつの時代も

だますのは 社会の上部にいる権力者

だまされるのは 下層の一般国民


記念館では Cafeが併設

時間もあったので コーヒを頼んだ

入れてくれた女性と 話したが

大学で 満蒙開拓団を研究していて

卒業後 この記念館に就職したと

こう言う方も いるのだ

隣町 泰阜村の方でした


ここは 一般社団法人なので

資金面が 大変な様子

でも お客さんは 多かったです

30人ほどは いましたかね

この記念館 国・県が資金提供するべきでは?



写真
記念館の外観2枚
飯田駅を出る電車


本日の行動記
なし






































































 





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